中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読み始める
中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読んでいる。
私が高専から大学に編入したばかりの頃、学部の卒研の指導教官からなにかの話のついでに中沢氏の『森のバロック』を教えていただき、それ以来中沢氏の書かれたもののファンである。また、後に大学院でお世話になった先生は中沢氏との共訳書を出版されたこともある方だったので、勝手に親近感をもっていたりする。
中沢氏の書かれるものには、いつも「ここに何かがある」と思わされてきて、特に『精霊の王』、『レンマ学』、『アースダイバー神社編』は丸暗記する勢いで読んだ。なんども開いたり閉じたり書き込みやメモの挟み込みをしたせいで本がバラバラに崩壊する寸前である。
特に『レンマ学』についてはこのnoteでも読書メモを細かく書いていたことがある。
また『アースダイバー神社編』は、レヴィ=ストロース氏の神話論理を細かく読み直してみようと思い立ったきっかけのような一冊であった。
(ちなみに↑この記事、今読むと、書き直したくなるところがたくさんあるのだが、これはこれでひとつの方便としてよしとしよう)
そしてこの『精神の考古学』である。
一ファンとして「ついに、これを書いてくださったか」という思いである。あるいは、これまでの中沢氏の著書で、たくさんの言葉たちによってその輪郭だけを影のように浮かび上がらせられつつ、それ自体についてはほとんど言語化されてこなかったものは、このことだったのか!という感想である。
詳しいことはまたじっくり読むとして、いくつか心に残った文章とそこから思いついたことを、速報的ファーストインプレッション的にメモしておこう。
* * *
この本では若かりし日の中沢氏がネパールで修した「ゾクチェン」の行の詳細が明らかにされている。まず本書の冒頭、チベット密教との出会いに至るまでの話で、中沢氏は次のように書かれている。
言語の構造と、心に体験する実感覚。
心に体験する実感覚、”それ”を、いや”これ”を、どういう言葉で言うことができるのか、言い得て妙な言葉をもたないまま”それ”と対峙させられ続ける苦しさのようなことならば、わたしも思い当たる節がある。
言葉を持っていない
特に大学院生のような立場で、”それ”のことを自身の研究テーマにしてしまった場合、つまりそれについて何らかの専門学問分野の方法でもって何かを言ったり書いたりすると宣言してしまった場合、「言葉にできないからまあいいか」と手放せなくなることの重さがある。
理論物理学か、生命科学か、数学か。ユングのマンダラか、それとも人類学か、はたまたコンピュータサイエンスか、それとも電波望遠鏡の開発か。
「ここに、そのためのコトバがありそうだ」
そう思って接近し、蓋を少し開けてみても、どうやらそこにある言葉たち”だけ”では、どうやら自分の一生分程度の時間では、”それ”にはほんの少し近づけるか近づけないか、よくわからないといった印象を与えられる。
しかし、こういうことを考えるのはきっと”わたし”ひとりではなく、他にも、過去にもたくさんそういう人間がいたはずだから、その人々が開発している途中のことばが、どこかに、何か、あるはずだ、と言う確信のようなものはある。
これは中沢氏の話ではなく、わたし、これを書いている私の話である。
わたしはそこで濫読という方法を選んでみることにした。
* * * *
文化人類学の深い知見をお持ちだった中沢氏は、チベット密教の修行へと赴いた。そしてそこで、本書『精神の考古学』に仔細に紹介された、瞑想と分節と未分節のあわいに励起された言葉の世界に入る方法を、中沢氏は授けられたのである。
言葉を使って、言葉の底を切り抜く
”それ”をよりよく理解し、探求するための「科学」の「方法」を構築しようという場合、そこにやむを得ず「言語」というか、かっちりと固まった記号の体系=分節システムを用いる必要が出てくる。
ここにいうなれば、動的で定まるところがない心の動きと、静的に”構造”が定まっている言語とを、いかにしてインターフェースするか?という大問題が登場する。
もちろん、言語なんてものに頼らずに、心そのものを体験する、という方向を目指すと言うこともできる。
しかし、あるときふと、気づくことがある。”言葉なんてものに・・頼らず・・心・・そのもの・・体験・・・”などと、言ったり、心で思ったりするときに、すでにそこに「言葉」が介入している。これをどうしたらよいのだろう、と。
* *
例えば、言葉は無力で無意味だ、言葉を超えた体験にこそ価値がある!
というようなことを言ったところで、この時点ですでに
言葉 / 超ー言葉
|| ||
価値がない / 価値がある
という、二項対立関係を二つ切り分けて、それを重ねて意味づけ価値づけをしているという、まさに表層的な言語的思考そのものが凄まじい勢いで起動している。
言葉を超える!言葉じゃダメだ! ・・と、言葉で言っている!!
この気まずさに気づいてしまったとき、思考する者はどうなるのか?!
・・いや、これは中沢氏のことというか、わたし自身、これを書いているわたし自身のことである。
差異の誕生を観察し、言語で記録する
幸いなことに、他でもない、中沢氏が上の引用で書かれている「構造主義」の代表のようなものだと一般的に感じられていたレヴィ=ストロース氏の思考において、すでにひとつの脱出ルートとなる道が照らし出されていた。
即ち、差異の誕生を言語の線形配列に写像させて観察し、それを記録するために言語を用いる、という方法である。
二項対立が切り結ばれ(分節され)組み合わされていく様を言語でもって再現する。
例えばさまざまな民族に口伝されてきた神話には、まさにそのような”差異の誕生を言語の線形配列に写像させて観察する”ことそのものであるような営みをみることができる。この神話の言葉を、さらに観察者の言葉でもって記録して、そこに差異の誕生、対立関係の対立関係の未来合わせが発生する様子を明瞭に取り出すのである。
人間「科学」は、その「方法」は、まさにこのような人間的な二項対立の切り分け方の可能なレパートリーと、二項対立の重ね方の可能性のレパートリーを、探し、観察し、記録するための記述システムを、言葉だったり図式だったりを用いて作り上げる。
静/動
真/偽
聖/俗
ある/ない
良い/悪い
言語化できない/言語化できる
止まる/超え出る
できる/できない
わたしたちが言語でもって何かを言ったり聞いたり、アタマを捻ったりするときには、いつもこういう二項対立がぞろぞろと引っ張り出されてくるわけであるが、ここで通常、私たちは、あらゆる二項対立について、普段の日常生活に必要な用事のためのコミュニケーションでやっている慣れたやり方で、二つに分かれた二極のどちらか一方を選ぼうとする。
肉にするか、魚にするか。
リンゴか、バナナか。
行くか、帰るか。
引き受けるか、断るか。
好きか、嫌いか。
Aか、非Aか、どちらを選ぶか?!
とやる。
野生の思考
ところが!
ここでレヴィ=ストロース氏が探求した野生の思考は、その二項対立する項たちはどこからきたのか?と問う。
例えば野生の思考のひとつのあらわれである「神話」では、様々な物事の”起源”が言語で語られる。料理の火の起源、タバコの起源、蜂蜜の起源、月の起源、魚の起源、そして死の起源などである。
これらの物事は、
料理の火 / 非-料理の火
タバコ / 非-タバコ
月 / 非-月
といった二項対立関係の一方の極である。
ここでたとえば「月」とは、「月ではないものーではないもの」である。
野生の思考では、「月」の起源を単純に何か別の項に還元したりはしない。
何か別の項に還元したところで、その何か別の項の起源がまた問題になるだけだからである。
野生の思考は、物事の起源を所与の項から所与の項へと遡っていくのではなく、その事物がその事物ではなない何かと分節される”差異の誕生”において捉えようとする。
*
しかも野生の思考は、二項対立が二項対立として切り結ばれるようになる経緯を、言語の線形配列として編み直していく。
二項対立が”まだない”ところ、正確にいえば”ある/ない”の区別もまだはじまっていないので、二項対立があるともないとも言えないところのことを、日常的な経験的世界のことを語る言語の線形配列をそのまま転用(ブリコラージュ)してシミュレートしてしまうというのが野生の思考のすごいところなのである。
* *
ここで野生の思考は、いうなれば言葉を(いい意味で)ハッキングして、例えば、ある/ない、人間/動物、できる/できない、うち/そと、などなど、ありとあらゆる二項対立を持ち出しては、そのどちらか一方を大急ぎで選ぶのではなく、その対立する二項の”どちらでもあってどちらでもない”ことを言う。
そしてこの”どちらでもあってどちらでもない”項(両義的媒介項)もまた、差異の誕生の相において、二項対立の対立として最小構成で四つセットで一挙に分離されたり結合されたりする脈動の影のようなものとして語り出す。
+
人間のように服を着て弓矢を持って二本足で歩き回るジャガー、とか。
火で料理することを知らず鳥たちのように砂をついばむ人間、とか。
ここで「いやいや、ジャガーは二本足で歩きませんよね?」などと言っても何も間違った見方を正解へと正すようなことにはならない。その通り、ジャガーと人間が別々で真逆に対立するからこそ、だからこそ、人間だかジャガーだかわからないやつという、対立二極のどちらでもあってどちらでもないことを言語でもって表現できるようになっているのである。
言葉は二項対立を分節する=切り結ぶものでありながら、対立する二極のどちらでもあってどちらでもないということを言える。これが言葉のすごいところなのである。
例えば人間が、言語だけでなく、さまざまな身体感覚においても分節をしている。
暑い/寒い
眩しい/暗い
硬い/柔らかい
臭い/芳しい
赤い/青い
白い/黒い
そして
自/他(自分の体/自分の体でないもの)
さらには
生/死
などなどである。
この手の感覚的な分節においては、”白でもなく黒でもなく”といったことを神経系でもって感覚することは難しい。
それに比べると言語は「喋るジャガー」「服を着ているジャガー」といったことを言うだけで、二項対立関係を簡単にどちらでもあってどちらでもないモードに励起することができる。
もちろん、黒いカラスを見て、白いカラスを観想するようなことはできるが、これはイメージを構築しているのであって、感覚とはまた別の話、より言語寄りの話であろう。
***
二項対立のどちらでもあってどちらでもないモードに励起された言葉は、例えば自/他のどちらでもあってどちらでもない、とか、生/死のどちらでもあってどちらでもない、といったことを意識的に考え、語り、さらにはイメージすることさえ可能にする。
例えば『精神の考古学』162ページを読んでみよう。
ゾクチェンとは何かについては『精神の考古学』を読んでいただきたい。
ここでは
空/有(個体性を備えた現象)
の二項対立が登場すると同時に、”そのどちらでもある”ということが言われている。
*
どちらでもあってどちらでもない
日常生活において、わたしたちは言葉で「なにはあれである」と言われると、「ああ、ナニはアレで、アレではないものではないんだ!」と思って納得したりがっかりしたりしてしまう。
いま世界は「空」である、とくると、「ああ、世界は空なんだ、非-空(「有」といってもいい)ではないんだ!」と思いたくなる。
そしてこの世に存在する(有る)あれこれのものは、どれも空っぽ、本当はないんだ、だからもう無視して、遠ざかればいいのだ、などと言ってみたりする。
しかし、あわててはいけない。世界は空である「と同時に」、「個体性をそなえた無限の現象をたえまなくつくりだして」もいる!!!
個体性をそなえた現象というのは、言い換えると「ある」と言われるあれこれの物事である。「私」がいる(ある)ことであったり、誰かがいる(ある)ということであったり、目の前にあれこれが”ある”ということ。
世界はない、しかし同時に、ある。
ないのにある。
あるのにない。
*
通常私たちは何気なく言葉を使っていると、
「あるのか、ないのか、どっちだ?!」
とやってしまう。
明日の会議はあるのかないのか?
お年玉はもらえるのかもらえないのか?
老後の年金はあるのかないのか?
ビットコインは2000万円になるのかならないのか?
これらはナニをやっているのかといえば、二つに分けて、片方を選んでいるのである。
こういう”二つに分けて片方を選ぶ”は、いくつもいくつも、ある向きをもって重なり合っていく。たとえば”ある/ない”という二分と、”真/偽”という二分があるとして、この二つをどちら向きに等置するか、二つのパターンがありえる。
(パターン1)
ある/ない
|| ||
真/偽
(パターン2)
ある/ない
|| ||
偽/真
そしてこの二つのパターンのうちの「(二つのうちどちらの片方が)正しいのか、正解なのか」と、また二つに分けて片方を選ぼうとする。
そしてようやく選んだその”片方”に執着する。
まったく、言葉とは業が深いものである(笑)。
もちろん、言葉がねじれにねじれて宿業になった姿というのは、分けられた後(誕生後の差異)を重ねに重ねてプレスして押し固めるようなことをしたから、そうなっているのである。
分節されたものと、分節と無分節が”分かれているような分かれていないような”こと
上の引用に続けて、中沢氏は次のように書かれている。
セムとセムニーの区別に注意しよう。
セムというのは人間なら人間、狸なら狸の”心(こころ)”である。
それぞれの生き物特有のそれぞれの個体に特有の仕方で、好き嫌いを分け、自他を分け、こことそこを分け、生死を分ける。この分け方の癖というかパターンのようなことがある。
これに対してセムニーとは「法身」のことであり、つまり分けたり分けなかったりすることとその可能性があるでもなくないでもない、と仮に言えるようなことである。詳細な用語法については『精神の考古学』を読んでいただきたい。
なにかとなにか分けたり分けなかったり、その分け方(分け”ない”方)の無量のパターンを生じたり生じなかったりするところが強いていえばセムニーである。
その多様な現れのもつれ方のひとつのパターンが、個別の生命体が持っている分け方(分別)の編み方の癖のようなものとしての心(セム)である。
人間の言語的意識は、通常この「心(セム)」の内部というかセムとして閉じているが故に、セム(心)が分節する、ある/ない、自/他、生/死、内/外、うまい/まずい、安い/高い、上がる/下がるなどのの二辺のどちらかに執着をして迷うばかりで、セムニーのことなど思いもしない。これが「セムニーはセムに頽落して」いるということになろうか。
* *
と、ここだけ読むと
「セムはダメダメ、セムニーみたいなのがイイんだよ。」
などと言ってみたくなるのであるが、これもまた量産型の妄想分別である。
それこそ二つに分けて、その片方は良くて、他方はダメ、とやっているのである。
良いとかダメとか、二つにわけて片方を選ぼうとした瞬間に、「いまのわたしはそういうセムなんだ・・」と思い出さないといけない。
ここで前の引用を思い出そう。「空であると同時に、個体性をそなえた無限の現象をたえまなくつくりだしている」と書いてあった。
あれ/これに、他ではない何かとして、分かれたり/分かれなかったりする個体性をそなえた無限の現象たち。それらはそのまま法身、セムニーであり、それについてどうすると良いとか悪いとかセムの中から論じることはしようもない。
固める言葉、ふやかすコトバ
そしてここに、妄想分別を固めるための手段としての言葉ではなく、セムをゆるく解いてセムニーに共鳴するようなものへとふやかすための道具(方便)としての言葉という、言葉の姿が登場する。
言葉は”あるかないか、どっちだ!”と脅迫強要することもできるし、”あるでもなく、ないでもないなあ”と、思考をふやかすようなことを言うこともできる。
どちらが良い悪いではない。
このどちらもが、言葉の姿である。
*
「あるのか、ないのか、どっちだ!どっちだ!はやくはやく、どちらか選べ!」式の言葉の繰り出し方=思考の仕方に対して、「あるような、ないような。あるでもないしないでもないし・・」と言う。
こういうことを学校や職場で言うと昭和の時代なら体罰を受けたはずであるが(現代コンプラ社会でも、その場で殴られることはないかもしれないが、「評価」を下げられることだろう)、実はこの生産的でも効率的でもないマネタイズしようもない「あるでもなく、ないでもない」こそ、人間が言葉を妄想分別を大量生産するための道具から、言葉の”底”を切り破るための武器のような金剛杵のようなものに変身させるのである。
中沢氏が紹介するゾクチェンの教えには、そのような言葉が満ちている。
心がたち起こる / 心が寂滅する
空 / 色
美 / 悪
こうした対立二項は、別々に異なりながらも異ならない。
二項は「同時」にそこにあり、どちらか片方が選ばれるべき美でどちらか片方が放棄されるべき悪でもない。
この「Aでもなく、非Aでもない」というのをレンマの論理という。
レンマの論理について詳しく知りたい方は中沢氏の『レンマ学』を読んでいただくとよい。
まとめよう。
言葉はふだんは、
A /非A
|| ||
B /非B
といったかたちをしている。
これを二項対立関係の対立関係としての四項関係と呼ぼう。
これに対して神話の語りのような言葉の使い方は”Aでもあり非Aでもある”とか”非Aでもあり非Bでもある”とか、”Bでもあり非Bでもある”、”AでもありBでもある”といったことを次々と、最小構成で四つ持ってくる。
そしてそれらを
A ー β1 ー 非A
| |
β4 β3
| |
B ー β2 ー 非B
という具合に、組み合わせていく。上記において例えばβ4が「AでもありBでもある」である。ここで、”ある/ない”もあるでもありないでもある(あるでもなくないでもない)という関係にあるので、もともと経験的に対立する二極のどちらでも”ある”ものとして姿を現したβ項は、そのまま二極の”どちらでもない”ものとしての、一種独特な存在感を帯びてくる(もちろん、帯びてこなくてもいい)。
そうしてこのβ項同士の対立関係の対立関係が際立ってくるかと思えば、この四つのβはたがいにどれがどれだか区別があいまいな、多でありながら一のような一でありながら多のようなことに見えてくるのである。
このレンマの論理によって、経験的に対立する両極の”どちらでもあってどちらでもない”ものとして語り出された=分節された項(β項、両義的媒介項)たちによって、私たちは表層の固定した枠組みのような言語構造をそのまま保ちながら、みごとにそれをハッキング(繰り返すが、いい意味で)して、いや、レヴィ=ストロース氏にならっていうならブリコラージュして、流動的な心のことを、二項対立関係を分節する=差異を誕生させる脈動のようなこととして記述=モデル化することができる。
そのモデル化されたものが、たとえば神話の語りだったり、描かれたマンダラだったりする。もちろんそれは心それ自体ではないが、しかしここで、差異と同一性の区別にこだわって、どちらか一方に執着する必要もないのであるから、”心それ自体であるようなないような”何かとして、楽しみながら眺めたり眺めなかったりすることもできる。
そこにおそらく、「心」を言語でもって記述する、という「科学」の「方法」の可能性が見えてくる。
・・・
などと考えているときに、松岡正剛氏と津田一郎氏の対談『科学と生命と言語の秘密』の一節に、ふと目が止まった。
そう、数学もである。
戯論寂滅するも、β脈動言語は饒舌に
言語的な意味分節などというものはことごとく妄想分別とイコールなのではないかと考えたくなるところであるが、そのように分別することもまた、二つに分けて片方に執着するやり方の一パターンである。雑駁に描けば、下記のような具合のことである。
言語 / 非言語
|| ||
妄想(偽)/真実
∴「非言語の真実を追い求めたい!」
となるが、これこそ、二つに分けて片方に執着し欲望する、をやっている。
二つの分かれ道「どちらか」を行けば、真/偽の「真」に辿り着くことができ、そこで全てが解決する・・のではないか、という淡い期待を打ち破る、なかなか厳しい修行の道である。
これについても中沢氏が紹介されているゾクチェンの教えは明確に、言語的な分節をレンマの論理で自在に組み替えることができる高度な言語意識”もまた”重要であることを伝えようとする。
同じことを中沢氏は次のようにも書く。
特殊な非日常的な意識状態で「見える」こと。
特殊な非日常的な意識状態で「聞こえる」こと。
そして、非日常的な配列に組み替えられた言葉による思考。
そのようなものたちも、”他ではないそれ自体”を追い求め、欲するという「心」のモードに巻き込まれると「ただの幻想」と同じになってしまう。
レンマの論理で脈動し様々な差異(二項対立)の可能なパターンを無数に励起させたり消滅させたりする言葉(つまり野生の思考の神話の論理のような)によって、瞑想の体験を通じてありありと見える”それ”のことを思考し、哲学する、言語化する。
それによって、言葉と、イメージと、身体感覚、そのいずれもが人間の「心」の何らかのあり方、空海が十住心論で紹介している「心」の様々な住まい方によって分節され組み上げられたものである”身口意”を共鳴というか共同というか、連鎖というか、共振させて、この死すべき束の間の存在のまま、この死すべき存在が、その存在をそのようなものとして編み出している”法界”と異なるものではないことを知るのである。
+ + +
というわけで、肝心の中沢氏の文献の紹介はほんの数行の引用のみで、あとはわたしの意見をあれこれと並べつつ、あいだあいだにAmazonアソシエイトのアフィリエイトリンクが挟んであるというどこかにありがちな体裁になってしまったことをお詫び申し上げるとして、目下最大の問題は、これを書いているわたしが、実は『精神の考古学』をまだ半分くらいしか読んでいない、ということである。もちろん、読書感想文というものは全部読まなくても(場合によっては数行読むだけで)書ける。
しかし、いまの場合そのようなことをする合理的理由はないので、引き続きじっくり読むことにします。特にここから先、いよいよ「内光の顕現」の話になるので、眼が離せない。
つづく
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