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自分を取り戻すための日記 30

2022.6.13 決断<後編>

前回の落ち込み&自責&自虐モード満載のnoteを書き終わり、余りにも苦しくてこのままでは眠れないと、夜中に坂口恭平さんの『躁鬱大学』を再読して(もう何十回目?)、気づく。
「ああ、また一番やってはいけないことをやってしまった…これがいけないのだ」と。

被虐待児で躁鬱気質を持つ私は、他人の意見を聞きすぎてそのまま受け入れすぎて、自分で自分を抑圧していく。自分の首を絞めていく。
まったく自分に合わないやり方を自分に矯正していく。
他人の勝手な意見を真面目に真正面から聞きすぎて、
それがどんなに気持ち悪くても、それに従わなければ正しく実行しなければと思い過ぎて、それで体をガチガチにし、合わない型に自分を押し込めようと格闘し、その窮屈さからやがて体も心も壊してしまう。

何度同じ過ちを繰り返しただろう。
もうそろそろ学習しなければ。
私は他人の言葉を真面目に聞きすぎる。他人の顔色を細かく見過ぎる。
他人に楽しんでほしくて自分を犠牲にし過ぎる。

私のような気質は社会では少数派で、だからどうしても社会に蔓延する多数派の大きな声を聴いてしまう。
くそ真面目なACだから余計に真剣に受け取ってしまう。
生まれた時から教育もしつけも仕事のやり方も組織や団体の論理も、多数派に都合のよい合理的で画一的なやり方を植え込まれて生きてきた。
社会で生きるためには皆と同じ価値観を持たないと、差別され排除され必要な援助も受けられず生き辛くなる。

でも、その価値観は私の気質にはまったく合っていない。
それを真面目に受け止めすぎると、私は抑圧され窮屈になり、胸が苦しくなりパニックになり、やがて体と心を壊してしまう。
自由がなくなると私は自分を保てない。

多数派が正しいとか、少数派が間違っているとかじゃないのだ。
統一された正解などはない。
考え方や感じ方、行動の仕方が、私たちはまったく違うだけだ。
気質がまったく違うのだ。
私には多数派の、世間一般の、普通の、考え方や感じ方、行動の仕方がまったく合わないだけだ。
その通りにしていると、やがて窮屈になって鬱になる。

私の忍耐力は半端なくある。
だから結構我慢できる。
他人の顔色を頻繁に見て、他人の役に立てるように他人の期待に応えられるように、限界まで自分を殺して頑張ることができる。
なにせACだから。しかも重症の。
私の行動の基準は他人の役に立って喜んでもらうこと。
だから、自分のことより他人を優先してしまう。

でも、本当は他人に喜んでもらうことで、自分の存在を認めたいのだ。
自分に自信がないから、自己尊重が低いから、他人に認めてもらうことで「ここにいていいよ」と言ってほしいのだ。
他人から褒められることで、頼りにされることで、自分の居場所と存在意義を見つけたいのだ。
だからあくまでも自分のため。
親に認めてもらえなかったことを、他の誰かに認めてもらうことで補おうとしているのだ。
自分を生かすために他人の評価を欲しいと思っているのだ。

でも、どこまで行っても、本当に欲しい評価なんてもらえない。
どんなに頑張っても、他人に合わせているうちに自分を見失い、やがて窮屈になって耐えられなくなる。
その繰り返し。

もうそろそろ自分を信じたい。
結局は私が私自身を信じず、拒否していることがすべての発端。
ダメな自分、中途半端な自分、何も出来ない自分、最後まで成し遂げられない自分。
それを認め、自分の本来の気質を前向きに生かす方法を考え、今まで抑圧し「ないもの」としていた自分の本質を受け入れたい。

この道一筋では生きられず、あっちふらふらこっちふらふらと興味が移り変わる自分。
極めようと思わず楽しかったらOK。飽きたら終わりな自分。
だから、一流のプロにはなれず、広く浅く多彩に、好きなことだけを一生やり続けるだけの素人の自分。
苦手なことは一切できない自分。
すべてを好きか嫌いか、心地いいか窮屈かで判断してしまう自分。
適当で雑だけど、すべて感覚で出来るから、すぐになんでも出来る「器用富豪」な自分。

このいい加減で適当な自分を全部認め、割り切って、リラックスしてマイペースにできればうまくいくと思う。
私には怒りの感情は一切不要なのだ。
この不要な感情を失くして、やりたいことをやり続ける。
一生現役で打席に立ち続け、経験だけを増やしていく。
楽しいことをするにはやる気や努力はいらない。
息をするように自然にラクにできること。
それだけが私を生かしてくれる。

私たちにロールモデルはいない。
だから参考に出来るものは何もない。わかってくれる人もいない。
自分がやりたいようにやり続けるしかない。
これからも他人には理解されることはなく、笑われ、馬鹿にされ続けるだろう。
でも、仕方がない。
私たちにはそんなことよりも自由のほうが大切なのだ。

私と似たような人は実は沢山いると思う。
自分の躁鬱気質をうまく扱えなくて、似合わないキツイ生き方を自分に強いている人は大勢いると思う。
でも、それに気づかなかったり、気づいたとしても認めてしまったら差別されたり駆逐されるから、黙って静かに潜んでいる。
普通の人の顔をして、自分を偽って気配を消して、死にたくなりながら雑踏の中に紛れている。

私たちにとってはどこまで行っても生きにくい社会だ。
真に理解されることはほぼない。
大手を振って存在を許されることも認められることもない。

でも、生きていく方法はある。
自分の特質を殺さずに生きていくスキルを身に付け、生き延びる道はある。

まずはこんな自分自身を認めよう。
他人の話はもう聞かなくてもいい。
自分の声にだけ従う。
自分の身体の中の声に。
身体の中から湧き上がる声に。

何もないから、何も持たないから、空っぽだからこそ聞こえる声がある。
私たちはコンセントだ。
天と地を繋ぐコンセント。
空洞だからこそ声を伝えることができる。

だからありのままに。
何もないことを恐れずに。
感覚と直観だけを信じて。
肩の力を抜いてリラックスすることだけに集中しよう。

やがて聞こえてくる声に耳を澄まそう。
雑音はすべて消して、静寂の中にただゆったりと座り込もう。
そうしたらやがて姿を現すだろう。
遠い昔に自分の中に深く沈めてしまった本来の自分の塊が。
熱い光を放ちドクドク確かに動いている私の心臓が、そこに現れるだろう

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