地球語を喋るファントン星人とウルトラマンについて:ウルトラマンメビウス
※「ウルトラ」という言葉が嘘みたいに多いです。ゲシュタルト崩壊しますね。こりゃ。
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課題に追われるのが、嫌になる。嫌になると、参考文献や課題に関する情報すらも目に入れたくなくなるというもので。
半強制的に造り上げた暇の中で、私は「ウルトラマンメビウス」を視聴することにした。ちょくちょく見ていたものの、話を連続してみるのは久しぶり。十三年以上ぶり、だろうか。
しかしもう齢四五歳というガキでは当然無いから、見方も考え方も変わってくるというもの。2006年「ウルトラマンメビウス」第七話・「ファントンの落し物」という回を見ている中で、不図疑問に思ったことがある。(なんでもかんでも疑問に思うようになってしまった悪い癖かどうかは分からないが・・・。)
劇中に登場するファントン星人は、もちろん地球人ではなく、宇宙人の類である。故に、彼らが宇宙語を話すというのは、なんら不思議なことではない。言葉というものは、ちょっと行ったところで、変化するものだからな。
しかしなぜ、宇宙人であるファントン星人が宇宙語を話していることに違和感を覚えたのかというと、私は、地球後(日本語)を話しているファントン星人を見たことがあったからである。
二〇一五年放送、「ウルトラマンエックス」という作品において、Xioという特捜隊(?)には、ファントン星人が普通に居座っている。それどころか、Xioという組織の設立に深くかかわっており、地球人にとかく友好的にも見える。
「キエテ・コシ・キレキレテ」の行方①
さて、本題に入ろう。
宇宙語を操るファントン星人と、地球語を流暢に話すファントン星人。その違いから一体どのようなことが分かるのか。考察していきたいと思う。
まず今までに、ウルトラマンが喋らないということは無かったのか?
そういわれると、そうではない。例えば、初代ウルトラマンは、ハヤタ隊員と同一化する前に、喋っていた(気がする!)し、ウルトラマンコスモスも地球語で話していたこともある。「ウルトラマンメビウス」では、ウルトラの父・母や、ウルトラ兄弟も話していたが、喋ったことがあるウルトラマンがいるというだけで、その絶対数が多いというわけではない。
大きな転換点は、「ウルトラマンゼロ」ではないだろうか。その大きな特徴として、もうベラベライケボ(cv.宮野真守)で喋る、喋る。有り体に言えば、「ウルトラマンゼロ!...セブンの息子だ!」という風に、自分の名前を堂々と宣言したウルトラマンは、彼が初なのではないだろうかとさえ思わされるほどである。
ちなみに注意しておきたいことが、「ウルトラマン同士の会話」は主な考察対象に含まない。あくまで人間や他の生物に対するウルトラマンの発話、もしくは宇宙語ではなく、地球語で喋るウルトラマン(もしくは怪獣)を考察対象にする。
さて時を戻そう。
ウルトラマンゼロ以降のウルトラマンに今度は注目していきたいと思う。
順々に挙げてゆくと
ウルトラマンギンガ、ウルトラマンビクトリー、ウルトラマンエックス、ウルトラマンオーブ、ウルトラマンロッソ、ウルトラマンブル、ウルトラウーマングリージョ、ウルトラマンリブット、(以降令和)ウルトラマンタイガ、ウルトラマンタイタス、ウルトラマンフーマ、ウルトラマンZ(Zは未放送)。
今、youtubeに上がっている、「ultra galaxy fight」を見て貰えれば解り易いと思う。彼らは、とことん話し込んでいる。ウルトラマン本体の声帯とは異なった、変身者の声で話しているという点も、一層特異な点であると考えられる。(「ultra galaxy fight」は、人間が登場しないため、ほぼウルトラマン同士の会話であるが、劇中と大差はないので、参考になると思われる。)
まとにかく、彼らはとことん話すのだ。私が見たことのある中のウルトラマンが集合することの多い平成初期・中期の映画作品、例として、「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」や、「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち」「ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦」、「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」「大決戦!超ウルトラ8兄弟」、では、先ほど挙げた新世代のウルトラマンやウルトラウーマンほど、(特に人間と)連続的に会話を続けているという印象はない。ましてや、ウルトラマン同士のネタ的な掛け合いも存在しない。
特に映画の例として挙げた三作(ウルトラマンティガと書いてあるもの)は、ほとんどウルトラマンと人間の会話は無いに等しいと言っても過言でない。コミュニケーションとして見受けられるのは、あいずちくらい・・・。
背景。友愛なるウルトラマン様
ウルトラマンやウルトラマンウーマンが話すようになるにつれて、彼らの声に対して、より多く声優が起用されている気がするのは気のせいだろうか?
例えば、ウルトラマンゼロなら宮野真守さん。(夜神月、月山習)
少々違うかもしれないがウルティメイトフォースゼロのメンバーである、
グレンファイヤーは、関智一さん。(ギルガメシュ、スネ夫)
ミラーナイトは、緑川光さん。(グリッドマン、ガロウ)
ジャンボットは、神谷浩史さん。(リヴァイ、阿良々木暦)
ジャンナインは、入野自由さん。(ハク、トド松)
ウルトラマンギンガ(本体)なら、杉田智和さん。(ちなみにウルトラマンギンガの宿敵であるダークルギエルも杉田智和さん。)(銀さん)
ウルトラマンエックスは、中村悠一さん。(司波達也、金時)
ウルトラマンオーブの変身アイテム、オーブリングの音声は、櫻井孝宏さん。(おそ松、クラウド)
ウルトラマンタイガは、寺島拓篤さん。(シロエ、一十木音也)
ウルトラマンタイタスは、日野聡さん。(アインズ・ウール・ゴウン、煉獄杏寿郎)
ウルトラマンフーマは、葉山翔太さん。(波羅夷空却)
ウルトラマントレギアは、内田雄馬さん。
ウルトラマンZの変身アイテム、ウルトラゼットライザーの声は、畠中祐さん。(上鳴電気、九十九遊馬)
今とりあえず思いつくものだけを上げてみたが、人気、いや超人気声優の方ばかりである。(いつか女性の声優の方が、ウルトラマンシリーズのウルトラマンを担当したら是非見てみたい。)
この事実からも、ウルトラマンの「声」、話すという行動にますます重点が置かれているということが分かるのではないだろうか。
2000年代、2010年代、2020年代と年を経るごとに、アニメの社会的受容度は高まっているように思えるし、国民的「ヒーロー」に声優が起用されるともなれば、ウルトラマン・ウルトラウーマンの存在というものは、人々にとってますます親近感の湧くような存在に変化していくことは当然の帰結なのかもしれない。
宇宙人から「ウルトラマン」へ
声優の起用の多さという観点からも、考えてみたが、どうもこれだけでは説得力に欠ける気がするので、ウルトラマンというイメージの変化から見てみよう。
初代ウルトラマンの「ウルトラマン」は、作中ではまさに「宇宙人」そのものである。ウルトラマンという名が、人間が勝手につけた恣意的なものにすぎないように感じられるほどの。
ウルトラマンはほとんど喋ることはない。行動に伴う「スェア!!」という発音のみで、人間という存在にとっての、依然怪獣と変わりなく不可解、奇妙な何かであるという点が強調されているとも捉えられる。まるで何かの「神」に近いような存在。「宇宙人」という特徴を前面に押し出しているような存在。
昭和のウルトラマン・ウルトラウーマンたちは、このような特徴が強いと考えられる。
次の大きなウルトラマン期(?)は、平成初期から平成中期にかけて。ウルトラマンティガからウルトラマンメビウスまでの時期。(ウルトラマンゼアスやナイスやセブン21、ネオスなどもいるが、あまり知識は無いので割愛・・・)
ウルトラマンティガは、宇宙人ではなく、地球の太古に存在した光の巨人である。そしてウルトラマンガイアは、その名から連想できる通り、大地の化身的存在。ダイナは出身不明。「ウルトラマンガイア」に登場するウルトラマンアグルは、海の化身的存在。このような平成初期は、「宇宙人」というよりも、地球出身であったりと、人類の味方をしてくれる光の巨人というイメージである。不可解な宇宙人という印象は、昭和のそれと比較すれば薄まっているような。
そして「ウルトラマンメビウス」は、初期のウルトラマンたちの世界観をそのまま受け継いでいる40周年記念作品。これは作品の記念的な設定から、「宇宙人」という意識が強いのではないかと思われる。これはおそらく例外だろうと考えられるが、ウルトラマン同士、もしくはウルトラマンと怪獣が話しているシーンがあるので、甲乙つけがたい。それにウルトラマンメビウスは、メビウスという宇宙人が地球人に扮しているから、「ウルトラマン」からの視点というものがちと複雑である。あぁ、これ以上書くと、ほぼウルトラマンメビウスのお話になってしまうので、辞めておこう。また別の記事で。
次に、ニュージェネレーションズと呼ばれる、一応ウルトラマンゼロも含めた、新生代のウルトラマン・ウルトラウーマンたちは、「宇宙人」という特徴を備えていはいるものの、不可解・奇妙奇天烈な存在としての「宇宙人」という印象ははるかに薄い。
だって、み~んなベラベラ喋るし。普通のように自己紹介とかするし。変身者と日常的に会話するし。親愛なる隣人のような感じが拭えないのは言うまでもないだろう。
ウルトラマンだって苦悩する
それと同時に、人間側から見た一方的なウルトラマンの物語だけが展開されなくなっているというのも一つの特徴だろうか。
初期のウルトラマンとは異なり、最近のウルトラマン作品は、人間や人類側だけではなく、ウルトラマン側のストーリーにも注目されているのではないだろうかと惟う。
ウルトラマンタロウはウルトラの父の息子であるが、◯◯の息子のように、ウルトラマンの背景に注目しているものがよく見受けられる。
例を挙げるなら、
ウルトラマンゼロは、ウルトラセブンの息子、レオの弟子、ベリアルの宿敵、という風に、その背景が大きくフィーチャーされているウルトラマンだろう。
その他の代表例としては、ウルトラマンジードというウルトラマン。ゼロの宿敵であるウルトラマンベリアルの遺伝子を継ぐもの、つまり息子であるという少々ややこしい設定。これはもちろん、ウルトラマンの「非宇宙人的印象」を与えるものであると思われる。
そしてウルトラマンタイガは、ウルトラマンタロウの息子であり、その背景が大きくフィーチャーされているウルトラマンの一人だろう。
もちろんこれだけではなく、そのウルトラマンが、なぜ地球にやって来たのか、なぜ主人公と同一化したのか、なぜラスボスと戦うのか、というウルトラマン側の物語が、ストーリーの多くを占めるようになってきているのも、初期のウルトラマンとの違いではないだろうか。
背景、友愛なる異星人並びに怪獣様
さて、タイトルには「ファントン星人」と怪獣の名を書いたのに、だいぶウルトラマンについて書いてしまった。
ウルトラマンも宇宙人なのだから、怪獣に注目しないわけにはいかない。先ほども書いたウルトラマンの「非宇宙人的印象」は、怪獣にも見受けられる。
ウルトラマンエックスのファントン星人、ウルトラマンジードの「ぺガ」など、人間に協力的な怪獣や異星人はウルトラマンだけではなくなってきている。
この要因として考えられるものは、「多様性」「男女平等」「公平」「自由」のように、何かしらの垣根を超えるような動きが社会全体で見受けられるからではないかというものだ。
人間も宇宙人であるのに、異星人を「宇宙人」と括って、差別(?)するという初期から見受けられる考えが、社会的に受容されなくなっているのだろうか。
それがファントン星人に地球語を喋らせているのではないか。
確かに初期にも、人間やウルトラマンは、怪獣と協力することもあった。しかし最近の作品はその傾向が一層濃く、敵とされる側も、不可解な宇宙人という印象を与えながらも、初期の時ほどの不気味さではないというのが気になる。
ウルトラマンも、怪獣も、人間に理解しやすいものになっているという印象はやはり拭えない。それは良い意味でも悪い意味でも、奇妙で理解しがたい「ウルトラマン」という作品が、理解しやすい、見やすい、聞こえやすい、大衆向け、国民向けの「ウルトラマン」という代物に変化しているようだ。
換言すれば、「宇宙人のウルトラマン」から、「ヒーローとしてのウルトラマン」に変化しているのだ。
それに伴って、ウルトラマンの対的な存在(のように見える)が、理解しやすい、見やすい、聞こえやすい、大衆向けの「ヴィラン」に変わっていく。それは宇宙人かもしれないが、初期のウルトラマン作品の自然災害の不気味さ・人類そのものの矮小さ・愚かさを示すような「宇宙人」的なものではない。
地球語(日本語)を話してしまっては、それが敵であろうと、味方であろうと、あの不気味さはどこかへ消えてしまう・・・。
「キエテ・コシ・キレキレテ」の行方②
「キエテ・コシ・キレキレテ」。ファントン星人が、GUYSの基地から去る時に放った最後の言葉。
意味は、「僕・君・友達」。
今、ウルトラマン作品において、この宇宙語を聞くことができるのか。
いや確かに不可能ではないだろう。しかし、ウルトラマンという作品が、初期のウルトラマン作品の様に、自然災害の不気味さ・人類そのものの矮小さ・愚かさ、宇宙人の不可解さというものを象徴する中で、この宇宙語を耳にすることはもうないのかもしれない。それほどに、「ウルトラマン」が変貌してしまったのだとしたら、少し寂しい。
「キエテ・コシ・キレキレテ」。ウルトラマンの第一話にて、バルタン星人に伝えようとした言葉だが、バルタン星人はそれを受け入れようとしなかった。しかしメビウスでは、ファントン星人の方から地球人に伝えてくれた言葉。
分からないからこそ、繋がろうとする。
この「キエテ・コシ・キレキレテ」という言葉は、なにかより大きな垣根を超えようとする態度を表すものだったのかもしれない。
なんだ。こっちも、差や境遇の違い、そういうものを超えようとする動きを象徴するものなら、今と大して違いはないじゃないか・・・!
先ほど、
この要因として考えられるものは、「多様性」「男女平等」「公平」「自由」のように、何かしらの垣根を超えるような動きが社会全体で見受けられるからではないかというものだ。
と書いた。
なら、なぜこれほど「ウルトラマン」は変わってしまったのだろうか。
どこかに違いがあるのだろうか・・・。
いや、あるさ。あるではないか。
「キエテ・コシ・キレキレテ」。これが意味するのは、人間の方から、不可解な存在へと歩み寄ろうとする、理解できない者なりの、最大限の態度だ。
ウルトラマンが不可解であったからこそ、「ウルトラマン」に存在する怪獣にも、「キエテ・コシ・キレキレテ」と言おうとしたのではないか。そうすればいずれかは、あちらの方から、「キエテ・コシ・キレキレテ」と言ってもらえるかもしれない。友達になろう、make friends with me 、faisons-nous des amis。違う。これではない。
今の「ウルトラマン」は、人間側ではなく、不気味な宇宙人が歩み寄ろうとしてくれている。ウルトラマン達が一方的に人間っぽくなっている気がしてしまう。しかし共生、公平という言葉は、あちら側だけが歩み寄ろうとするだけでは十分ではない。
もしかしたら、今の「ウルトラマン」はそのようなことを伝えてくれるのかもしれない。一方的に歩み寄ることの不十分さを教えてくれるのかもしれない。もしくは本当に今の「ウルトラマン」は、人間側から歩み寄るのを忘れてしまっただけなのか。
「キエテ・コシ・キレキレテ」
いつか再び、宇宙人と、いや自分とは全く異質の存在に歩み寄ることが出来るように、と書いておこう。
と
今日も大学生は惟っている。
引用
TBS.ウルトラマンメビウス 第七話 「ファントンの落し物」.2006年5月20日放送
参考
pixiv.侵略者を撃て(しんりゃくしゃをうて)とは.https://dic.pixiv.net/a/%E4%BE%B5%E7%95%A5%E8%80%85%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A6(2020年5月24日アクセス)
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