2008年11月25日、「アルコール依存症」の診断を受けたその日から私は酒を断ち、その記録のためのブログ【断酒!「ネクタイアル中」脱出実況中継ブログ】を始めました。書…
第20夜 私は、私の内側を突き動かされるようにして風呂桶大の調理バットに材料を流し込んでいる。 材料はクミン、カルダモンなどのスパイスと、クルミ、ピーナツ、ア…
第19夜 『また明日』 道々の軒先に植えられた果樹はいよいよ食べ頃で、先を歩く男は小さい女の子を肩に乗せ好きなように柿や林檎をもがせ、いちいちその果物の動画を見…
第18夜 『納骨』 3年、お腹の中をいれてもたったの4年だけど、あなたといた時間だけが私の人生でした。あなたのお骨(こつ)をお墓に納めたばかりなのに、やっぱり連れ…
第17夜 『カレー』 ここ十年は本業のデザインより食に関わる友人ばかりが増えているのだが、今日わが家に立ち寄ったMさんはたしか料理教室の主催だった。 たしか、…
第16夜 『木成苺』 北西の山を背に南東に開けた臨海部の畑には、人の背丈ほどの苺の木が整然と立ち並び、殊に春の一斉に花をつける姿が見事で、花びらの白としべの黄色…
第15夜 『2』 気がつくと「私」は、白い鉄でできた軽トラックの荷台だけのようなものにのって、ゆっくりと白い道を進んでいる。 荷台の端には見知らぬ同年代の白い服…
第14夜 『狐火』 冷房のきつい得意先の会議室を辞し、蝉の声に押されて駅までの道を遠回りしながら報告を打つ。ざらついたまま送信するとまもなく返信が届いた。スーツ…
第13夜 Aさんの訃報を聞いたのは春にしては深い雪の山中で、スキー板で踏みつける雪の感触を記憶にとどめることの方が大切だったが、義理を欠いてはならぬと思いそのま…
第12夜 今朝、目が覚めるときの私は気分が良く、いつもは薄暗い天井に暖かい光が浮いていた。しかしすっかり目覚めて見ると、関節の痛みは増すばかりで、身動きがとれな…
第11夜 高校の同期が何人かいるのを見てほっとしたが、私はこれまでの生活をあらためたくてここ、交流会のパーティーにきたはずなのだから、顔見知りを目ざとく見つけた…
第10夜 イエローメタリックのフィアットプントに乗っていたのは随分と前のことなのに、今日はそれを駆って友だちの家に急いでいる。 急いでいる時にかぎって信号につ…
第9夜 思ったより冷たい風に身を縮めながらペダルを漕ぐ私を、ゆっくり抜いて行くロードバイクの足もとはハイヒールで、改めて見返すと紺のスーツが身をくるんでいた。…
第8夜 末期ガンの私は不謹慎にもむしろ浮かれた気分でいた。 これから受ける手術が、恐らくは日本ではじめて、有料の視聴代金を頂くネット放送で、私は発案から主治医…
第7夜 彼らは男の子2人と女の子1人の、くしゃくしゃの短い髪の毛に白いシャツを着た、よく似た見た目のバンドのような三人組である。彼らはゲルボールペンの線描きに…
第6夜 五分遅れで運行している満員の京浜東北線の車内は、傘や外套の水滴と吐息の混ざった湿気でべたついている。誰もが気づかないふりで、前に立つ女はその手の傘が私…
草史
2023年7月5日 16:36
2008年11月25日、「アルコール依存症」の診断を受けたその日から私は酒を断ち、その記録のためのブログ【断酒!「ネクタイアル中」脱出実況中継ブログ】を始めました。書く事で自分を整理し、意識を向けたいポイントに意識を向けるために始めたブログは常に内省を促し、時には弱気を励まし、時には慢心をいさめる強い味方になり、交流が希望を育んでくれました。私は断酒会にほとんど参加していませんが、それでも断酒が
2023年3月22日 23:10
第20夜 私は、私の内側を突き動かされるようにして風呂桶大の調理バットに材料を流し込んでいる。 材料はクミン、カルダモンなどのスパイスと、クルミ、ピーナツ、アーモンドなどのナッツと、魚を油で煮たツナのようなもので、それらはかつて私が「白い食べ物」と呼んでいるものににていたが、これはそれとは全く別物であることは作りながら気付いている。 風呂桶大のバットは舞台の上に置かれており、スポットライト
2023年3月8日 22:30
第19夜『また明日』 道々の軒先に植えられた果樹はいよいよ食べ頃で、先を歩く男は小さい女の子を肩に乗せ好きなように柿や林檎をもがせ、いちいちその果物の動画を見せている。向こうでは手を伸ばして枇杷を頬張る大男が「この先に西瓜あります」という表示を肩の上に映し出している。さすがに季節が違うのでは?と一瞬思ったが、寒さが増す頃のそれはそれでうまいのだった。 私たちは今日もこうやって、誰かが作っ
2023年2月23日 08:08
第18夜『納骨』 3年、お腹の中をいれてもたったの4年だけど、あなたといた時間だけが私の人生でした。あなたのお骨(こつ)をお墓に納めたばかりなのに、やっぱり連れて帰ればよかったと後悔しています。できればずっと私の部屋にいて欲しかったけど、それは叶いませんでした。 パパはママがずっと泣いているのを心配しています。うそ。ちょっと呆れています。パパはまたその時が来たら子供ができると言います。
2023年2月8日 23:13
第17夜『カレー』 ここ十年は本業のデザインより食に関わる友人ばかりが増えているのだが、今日わが家に立ち寄ったMさんはたしか料理教室の主催だった。 たしか、と確証が持てないのはこれまで一度しか面識がないからで、それでも覚えているのはその見目である。大勢に囲まれながら、笑みをたたえた大きな瞳がまっすぐ相手を向き、鼻筋も口元もまっすぐで大作りだが涼しげである。それを包む黒くウェーブした髪が長
2023年1月26日 00:54
第16夜『木成苺』 北西の山を背に南東に開けた臨海部の畑には、人の背丈ほどの苺の木が整然と立ち並び、殊に春の一斉に花をつける姿が見事で、花びらの白としべの黄色と萼(がく)の緑の三色は邦を象徴するトリコロールとなっている。 しかし、「わが邦の木成苺は名産で根強い人気がある」というのは年嵩の生産者の自尊であって、現実は時代遅れの、収量だけがかろうじて戦える凡庸なものに成り下がっていた。 そ
2023年1月11日 23:53
第15夜『2』 気がつくと「私」は、白い鉄でできた軽トラックの荷台だけのようなものにのって、ゆっくりと白い道を進んでいる。荷台の端には見知らぬ同年代の白い服を着た女性がしゃがんでいるが、すぐに打ち解けられるような雰囲気はなかった。私の手には木で出来た「2」と刻んだ札を持っていて、「私」はそれが2割を意味し、それはあまり幸運な事ではない事を理解していた。 雲のような霞のような白い空がや
2022年12月31日 18:52
第14夜『狐火』 冷房のきつい得意先の会議室を辞し、蝉の声に押されて駅までの道を遠回りしながら報告を打つ。ざらついたまま送信するとまもなく返信が届いた。スーツには体温がこもり視界もぼやけてきた。こんな時は一休みして水でも飲むべきなのだが、そのまま私は蝉の声がひときわ大きく響く方に足を向けた。熱と蝉の声に包まれている方が心地よいのはいつものことである。きっと今夜の会議もいつも通りだろう。電話
2022年12月14日 19:55
第13夜 Aさんの訃報を聞いたのは春にしては深い雪の山中で、スキー板で踏みつける雪の感触を記憶にとどめることの方が大切だったが、義理を欠いてはならぬと思いそのまま喪服に着替えバスに乗る。斎場へ直行するバスの中は全員喪服であった。 バスが着いた大きな駐車場には21世紀風の弔問センターがあり、案内する青年は誇らしげに「我が宗門は、、」などという。どこかの総本山であるらしかった。会葬者の列は駐
2022年12月1日 12:49
第12夜 今朝、目が覚めるときの私は気分が良く、いつもは薄暗い天井に暖かい光が浮いていた。しかしすっかり目覚めて見ると、関節の痛みは増すばかりで、身動きがとれないことは変わらない。当然昨日までの重々しい空気はいつものままである。疫病は空気の質量まで変えるのだ、と感心したのは何日前のことだったか。 音声アシスタントにニュースを聞くのが常だったがやめた。事態はまだ好転していない。死人の数を数え
2022年11月16日 18:31
第11夜 高校の同期が何人かいるのを見てほっとしたが、私はこれまでの生活をあらためたくてここ、交流会のパーティーにきたはずなのだから、顔見知りを目ざとく見つけた自分にもそれを見てほっとする自分にも苛立ちを覚えた。 気を取り直してまわりを見ていると、親切そうに声をかけてくれる男がよってきて、彼は韓国から来たという。同じ新入りなのに事情通で、これから始まるパーティーで気に入られるように何か芸をし
2022年11月2日 18:47
第10夜 イエローメタリックのフィアットプントに乗っていたのは随分と前のことなのに、今日はそれを駆って友だちの家に急いでいる。 急いでいる時にかぎって信号につかまるのはお約束だが、なお悪いことに昔近所でつるんでいた男たちに囲まれてしまった。一人一人はそう悪いやつではないが、まとまると暴走してしまう性分を発揮させないように、ほんの少し下から、でも隙を見せないように、今はリーダー格になったと思わ
2022年10月20日 00:21
第9夜 思ったより冷たい風に身を縮めながらペダルを漕ぐ私を、ゆっくり抜いて行くロードバイクの足もとはハイヒールで、改めて見返すと紺のスーツが身をくるんでいた。 一定のリズムで上げ下げする脚がバイクを真っ直ぐ押し出している。よく見るとスーツの下のふくらはぎがこれまでの鍛練を伺わせる力強さである。 私はにわかに尊顔を拝したくなり、ギアを一段上げた。 そのガチャッという音と符合したように、先行車
2022年10月5日 10:41
第8夜 末期ガンの私は不謹慎にもむしろ浮かれた気分でいた。 これから受ける手術が、恐らくは日本ではじめて、有料の視聴代金を頂くネット放送で、私は発案から主治医探し、クラウドファンディングによる資金と機材の調達、媒体との交渉を沢山の人を巻き込みながら実現したのだ。その高揚感が包んでいるのは確かだった。 しかしいよいよメスが入るというタイミングで、家族の苦笑する顔が浮かんできた。その顔は見た
2022年9月21日 15:42
第7夜 彼らは男の子2人と女の子1人の、くしゃくしゃの短い髪の毛に白いシャツを着た、よく似た見た目のバンドのような三人組である。彼らはゲルボールペンの線描きにコピック塗りの、モノトーンのマンガのようなイラストを丁寧に描きながら、何かをデザインをしている。 速くもなく遅くもないタッチで、楽しそうに描く彼らの横で、私は何か別の、メカメカしいモノのデザインをしていた。しかし筆ペンで描き出されるの
2022年9月9日 00:24
第6夜 五分遅れで運行している満員の京浜東北線の車内は、傘や外套の水滴と吐息の混ざった湿気でべたついている。誰もが気づかないふりで、前に立つ女はその手の傘が私の膝にあたるのにさえ無関心である。距離が近くなるほど強固に発動する心理的な障壁が湿気を長く空中に留まらせていた。 しかし傘である。退けていただけないものかと視線を送ると、後ろの男が腰に手をまわし体の線を確かめてい、女は表情を固くさせて