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takayama
2021年1月17日 16:18
部屋に戻った奈々子はベッドに横になった。真っ白な天上をぼんやり眺めながら母の話によって齎された感情を言葉に置き換えていく。沸きあがり、揺れ動く感情は奈々子の中にあるものなのに奈々子がどうすることのできないもののように思えた。自分の中の自分ではないもの、自分を支配し、つき動かすもの。母の言葉の一つ一つは奈々子の中を流動する感情に刺激を与え、大きなうねりを作り出した。偶然母のお腹に現れた奈々子
2021年1月16日 15:36
母は麦茶を一口飲んだ。そして冷蔵庫をちらっと見つめた後、また奈々子に視線を戻した。「結婚してからもお母さんとお父さんの関係はそんなに変わらなかった。そりゃ結婚したからお互い責任はあるし、両方の両親や親戚にも気を使うことはあったわ。でも、それを抜かしたら付き合ってた頃とそんなに変わらない生活だった。お父さんは相変わらず小説の話をするし、お母さんはそれを、はいはい、って聞いてた。これからずっと
2021年1月15日 16:22
「別に今までわざと黙ってたわけじゃないのよ。特にする必要はなかったし、このままなにもなかったことにしたって問題ないとも思ってたのよ。お父さんは、まあ薬はたまに飲むけど、別に普通だし、奈々子だって健康に育ってる。あまり深刻に考える必要はないんだって思ってた」奈々子は黙って頷いた。「お父さんとは大学の先輩の紹介で知り合ったの。お母さんの大学の先輩とお父さんが同じ職場で、先輩に誘われた飲み会にお
2021年1月14日 16:46
それから奈々子は自分の部屋に籠って過ごすことが多くなった。〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉の言葉を思い出し、それをノートに書き写した。父と二人の〈キョウコ〉の過ごした時間を想像した。『ノルウェイの森』を読み返すと、それは初めて読んだときとはまた違った意味を帯びているように思えた。『直子』に含まれる〈小林杏子〉的な部分、『緑』に含まれる〈宮崎恭子〉的な部分、『僕』に含まれる父的な部分、それは近いようで
2021年1月13日 16:57
奈々子が答えるのを待たず宮崎恭子は席を立った。自分と奈々子のカップを手に取り、キッチンへとすたすた歩いていく。その後ろ姿を見ながら奈々子は〈小林杏子〉のことを思い浮かべた。二人の〈キョウコ〉はまるで違っている、容姿や性格もそうだが本質的なその存在の在り方そのものが違っている、そう奈々子には思えた。生きてきた道の違いなのか、それとも生まれ持った特性なのか、奈々子にはその判断はつかなかったが、この
2021年1月12日 17:09
「でも、そんな風に生きている奈々子ちゃんのお父さんを見ていると心のどこかでうらやましいって気持ちが沸いてくるの。この人はなんて自由なんだって。それと同時にね、腹も立ってくるの。もう少し真面目に生きろって。一番になるためにはやっぱり努力だって必要だし、嫌いな科目だって我慢してやってきた。嫉妬だってやっかみだってある。ずっとそういった厳しい競争の中で戦ってきたの。それなのにこの人はなに?みたいな。
2021年1月11日 16:22
「奈々子ちゃんは一七歳だったわね。高校三年生?」「はい」「じゃあ受験生ね」「はい」「うちも去年は理香が受験で。受験ってやっぱり大変よね」「勉強はつまんないです」「そういうものなのかもね」紅茶から白い湯気が微かに立ち上り、エアコンの風で部屋の中に散っていく。茶葉の香りがまた鼻を刺激した。「あの、宮崎恭子さん。父から手紙をもらったことありますか」奈々子は膝に置いた拳
2021年1月10日 16:21
宮崎恭子はドアを開けて玄関で出迎えてくれた。その姿を見たとき、奈々子は思わず息を飲み込んでしまった。ほっそりとした顔立ち、白く澄んだ肌、理知的で大きな瞳、首が隠れる程度に伸びた僅かに癖のある黒い髪、シンプルだがどことなく品のある服装に柔和な佇まい。昔、父が見ていた白黒の映画の中にでてきた女性みたい、奈々子の頭にその光景が浮かぶ。肖像画の女性とそっくりな女性に恋をする中年の男性の話、いつもお
2021年1月9日 16:20
机に向かい奈々子は〈小林杏子〉の顔を思い浮かべた。不思議な雰囲気のある人だった。彼女が口にした言葉を思い出し、ノートに書き写していく。父が愛した女性、父がその存在に自分の生きる意味を見出した女性。自分もいつか誰かのそんな存在になれるだろうか。身体に平均律クラヴィーア曲集の旋律が残っている。あの部屋でピアノを弾きながら日々を送る〈小林杏子〉の姿を想像する。あの花瓶には季節ごとに色とりどり
2021年1月8日 15:13
「怖いのね」長い沈黙のあと小林杏子はぽつりとそう言った。その視線は奈々子を超えてどこでもないある空間に向けられていた。奈々子は今自分がどこにいるのかわからないような気がした。だれかの夢の中に迷い込んだような気分だった。小林杏子は長い溜息をついた。「ここはね、いいところよ。静かだし、近くに自然もいっぱいあるし。でもね、ときどき怖くなるの。なんて言ったらいいんだろう、ここにいると自然がすぐそば
2021年1月7日 16:45
「はい、お待たせ」小林杏子は麦茶が入ったグラスを奈々子の前に置いた。奈々子は小さくお辞儀をした。グラスの中の氷は新しくなっていた。それが麦茶の中をクルクルと回っていた。グラスに触れるとひんやりと冷たかった。小林杏子は奈々子の前に座り、麦茶を一口飲んだ。そしてそれを置き、自分の左手を静かに眺めていた。「私の旦那さんはね、とてもいい人なの。私はちょっと精神的に弱いところがあって。それでたまにダ
2021年1月6日 17:03
通された部屋は結構な広さのリビングだった。全体的に落ち着いた色の家具が置かれていた。奈々子はベージュのソファに腰かけ小林杏子がやってくるのを待っていた。エアコンの風は穏やかで今まで真夏の空気の中にいた奈々子には少し暑いように思えた。使い古された扇風機がカラカラと音を立てながら天井に向かって風を送っている。壁にはどこか外国の海の写真がプリントされたカレンダーがかかっており、ときおりやってくる扇風
2021年1月5日 16:36
小銭を支払い、奈々子は勢いよく「公園前」に降り立った。名前の通り目の前に公園があり、子供たちの元気な声が聞こえた。「ブー」という音に振り返ると、バスがゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。バスの後ろ姿が揺らいで見え、日の光が一層強く感じられた。公園の周りは住宅街で同じような家々があまり間隔を開けずに並んでいた。奈々子はメモした住所の番地を確認し、立ち並ぶ家々の表札を一つずつ丁寧に読んでいった。
2021年1月4日 16:29
翌朝、奈々子はまた母にお弁当を作ってもらい、図書館が開く時間を見計らって外に出た。母から貰ったおこずかいに自分の貯金を足すと旅費には十分な金額になった。「まずは、小林杏子さん」自転車に跨りペダルを目いっぱい漕ぐ。蝉の鳴き声と風の通り過ぎる音が耳に心地よかった。坂道を下りながら空を見上げると空が勢いよく流れていた。奈々子の目に映る風景はいつも流れていた。自転車に乗って見る風景、車の窓に映