【長編小説】父の手紙と夏休み 24

「奈々子ちゃんは一七歳だったわね。高校三年生?」

「はい」

「じゃあ受験生ね」

「はい」

「うちも去年は理香が受験で。受験ってやっぱり大変よね」

「勉強はつまんないです」

「そういうものなのかもね」

紅茶から白い湯気が微かに立ち上り、エアコンの風で部屋の中に散っていく。茶葉の香りがまた鼻を刺激した。

「あの、宮崎恭子さん。父から手紙をもらったことありますか」

奈々子は膝に置いた拳を握りしめ、力強く言葉を発した。宮崎恭子は驚いたように目を大きくした。

「お父さん、そんなこと奈々子ちゃんに言うの?」

「いえ、私が父の部屋で勝手に、その、手紙を見て」

「あれ、下書きなんてあったのね」

宮崎恭子はそう言うと声をだして笑った。奈々子はその笑いの意味がわからなかった。

「奈々子ちゃんのお父さんがね、一時期体調を崩して、それで会社を休んでたの。その時にね、私の家に手紙が届いたの。ルーズリーフにシャーペンかなんかで書かれた手紙で、なんか中学生とか高校生の手紙みたいだった。ルーズリーフ二枚くらいだったかな」

「それじゃなくて、もう一通」

宮崎恭子は笑い声をさらに大きくした。

「もう一通あったの?」

「はい」

「ごめん、それは読んでない。どんな内容?」

「いえ、ならいいんです」

小さくなって俯く奈々子に気が咎めたのか宮崎恭子は笑いを止めた。テーブルに肘をつき、手を口元に置いて奈々子を眺める。

「それが聞きたかったこと?」

「はい。それと宮崎恭子さんは父のことをどう思ってたのかって」

キッチンから携帯電話の着信音が響いた。宮崎恭子はそちらを一瞥しただけで携帯電話を取りに行こうとはしなかった。携帯電話は一分ほど鳴ってから静かになった。宮崎恭子は口元にあてた手を頬へと動かした。

「奈々子ちゃんのお父さんはね、とても素直でまっすぐな人だと思う。素直でまっすぐな目で私を見てくれたと思う、申し訳なくなるくらい。それはとても嬉しいことだったわ。これ、奈々子ちゃんの前だから言うんじゃなくて」

奈々子は大きく頷いた。

「でも、やっぱり違うのよね。お父さんが手紙をくれたとき、私には付き合っている人がいて、まあ今の夫なんだけど、確かにそれも理由の一つではあるんだけど、もっと本質的なところでね、やっぱり違うって。ごめんね、別にお父さんの人格を否定してるわけじゃないのよ。どちらかというと尊敬してるくらいだから、ある意味では」

「大丈夫です」

宮崎恭子はテーブルから肘を放し、ソファにもたれかかった。ソファが微かな音をたてた。

「私は小さい頃からずっと勉強してきて、それでそれなりにいい大学に入って、確かに自分に自信があった。成績は中学でも高校でも常に一番だった。一番じゃなければ嫌だった。男の人にだってもてた。

別に自慢してるわけじゃなくて、私の古い思い出の話よ。顔がいいだけって言われるのも嫌だったし、勉強だけできるっていうのも嫌だった。なんでも人に負けたくなかった。

そうやって常に一番でいることって、つまり、人から常に見られてるってことなの。私がそう感じたのはずっと小さいころだったと思う。なんだか知らないけど私はいつも見られてるなってそう思ってた。両親からはもちろんだけど、周りの人全てから見られてた。男の人からも女の人からも。だからきちんとした人間にならなきゃいけないと思ったわ。なんでも完璧にこなす人間に。

周りがそう期待してるんだと思った。要するに社会が常に私を見てるのよ。私はそういう風に育ってきたから常に社会ってものを意識してきた。社会的になにものであるか、とか、社会でどれだけの位置にいるか、どう評価されるか、とか、社会の役に立たなければいけない、とかね。

だから私は社会の提示するゲームの中で一番でありつづけようとしたし、そうすることで自分の存在も肯定できた。競争は私にとってモチベーションになったの。

でも、奈々子ちゃんのお父さんはそういうことにまるで関心がないように見えた。社会的になにものであるかとか、社会の中にどう自分を位置づけるのかとか。社会そのものに興味がないように見えた。

それって私からしたらバカみたいに見えるのよ。この人少し頭が足りないんじゃないかって。ごめんね、怒らないで。私、なんでもはっきり言っちゃうから」

宮崎恭子は目を細めて奈々子を見つめた。奈々子はしっかりとその視線を受け止め、小さく頷いた。

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