【長編小説】父の手紙と夏休み 22

机に向かい奈々子は〈小林杏子〉の顔を思い浮かべた。不思議な雰囲気のある人だった。

彼女が口にした言葉を思い出し、ノートに書き写していく。父が愛した女性、父がその存在に自分の生きる意味を見出した女性。自分もいつか誰かのそんな存在になれるだろうか。

身体に平均律クラヴィーア曲集の旋律が残っている。あの部屋でピアノを弾きながら日々を送る〈小林杏子〉の姿を想像する。

あの花瓶には季節ごとに色とりどりの花が飾られるのだろう。その花を見ながら〈小林杏子〉は過去の様々なことを思い出すのだろう。そこにはもちろん父も含まれている。

誰かの記憶に、誰かの過去に、自分が含まれているという感覚は奈々子には上手く理解できなかった。そしてそれがうらやましく思えた。

奈々子は〈澤田恭子〉と書かれた年賀状を指でなぞった。

「次は宮崎恭子さん」

前日と同じように母にお弁当を作ってもらい、自転車に乗って出かけた。空には相変わらず真夏の太陽が輝いていた。耳にイヤホンをつけ、ダウンロードした平均律クラヴィーア曲集を身体に流し込む。肌に当たる風の感触と単調な旋律は奈々子の心を愉快にさせた。

自分が少しずつなにかに近づいている実感があった。そのなにかはまだはっきりしなかったが、奈々子はそれを昔からずっと探していたような気がした。

駅に自転車を止め、昨日とは反対方向の電車に乗る。車内の穏やかさは昨日と変わりないものだったが、乗客は昨日とは幾分違っていた。ワイシャツの袖をまくりあげたサラリーマンの姿はなく、小さな子供を連れた若い男女が多かった。奈々子は座席に座り携帯電話の日付を確認した。土曜日。

そうか、今日は休日か。

奈々子の中では永遠に繰り返す夏休みだが、世間の大人たちにとっては今日はたまの休日。真剣な目つきで窓の外を眺める小さな男の子を愛おしそうに眺める若い男女の姿に奈々子は休日のかけがえのなさを感じた。

高校最後の夏休みもあと少し。学校がはじまればあとは受験一直線。私はどこの大学のなんの学部にいくんだろう、そこでなにをしたいんだろう、そしてなんになりたいんだろう。

受験を考えはじめてからずっと考えていたこの問題。しかし前ほどその問題を重く感じなくなった。それは『ノルウェイの森』の僕が考えていたことであり、父が考えていたことだった。そしてきっと『直子』や『緑』も、〈小林杏子〉や〈宮崎恭子〉も。

自分の問題なんだけど自分だけの問題じゃない。誰かが自分と同じことを考えている、同じことで悩んでいる、答えは見つかっていないが、そのことは奈々子にとっての救いだった。

自分の心が感じるままに動くこと、自分の中の絶対に疑いえない真実に従って行動すること、それが奈々子が父の手紙から、そして『ノルウェイの森』から学んだことだった。

奈々子が今、心の底から望んでいるもの、目指しているもの、それは〈宮崎恭子〉だった。

〈宮崎恭子〉の家は奈々子の家からそんなに遠く離れていなかった。駅に降りつき、携帯電話で時間を確認すると家を出てから三〇分もかかっていなかった。

大好きだった人がこんな近くにいるというのはどんな気持ちがするんだろう、奈々子は父の顔を思い浮かべた。会おうと思えばすぐに会える距離。父は母と結婚した後も、自分が生れた後も、〈宮崎恭子〉と会っていたのだろうか、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。そして少し嫌な気持ちになった。

できれば会っていてほしくなかった。きっと会っていない、そう強く自分に言い聞かせた。〈宮崎恭子〉に会えばそれがはっきりする。年賀状と携帯電話を交互に見ながら奈々子は〈宮崎恭子〉の家を探した。

〈宮崎恭子〉の家は駅から徒歩一〇分ほどの高層マンションの一室だった。道に迷いながら辺りをぐるぐると回ったため辿りつくのに三〇分を要した。

奈々子は年賀状に書かれたマンション名を見つけたとき心臓が一度大きく鼓動するのを感じた。マンションはオートロック式でエントランスのドアは閉ざされていた。

インターホンの前をうろうろと歩く。怪しい人だと思われたくなかったが、なかなかインターホンを押す勇気がでなかった。もし〈宮崎恭子〉がでたらなんて言ったらいいのだろう、〈宮崎恭子〉以外の人がでたらなんて言えばいいのだろう。頭の中で様々なパターンを想定し、それへの返答考える。考えているうちにこんなことやめて家に帰ろうかと思ってくる。

結局十分以上インターホンの前で悩んでいた。幸い人はやってこなかった。頭に浮かんだ全ての会話のパターンを消去し、奈々子は空っぽの頭で年賀状に書かれている〈宮崎恭子〉の部屋番号を押した。僅かな沈黙のあとインターホンから女性の声が聞こえた。その声は〈宮崎恭子〉の声にしては若すぎるように思えた。奈々子が黙っているとその声は何度も呼びかけてきた。

「もしもし、もしもし、どちら様ですか」

「あの、澤田さんのお宅ですか?」

「はい、そうですけど」

「あの、あの、宮崎、じゃなくて、澤田恭子さんいますか?」

「母ですか?いますけど、どちらさまですか?」

「あの、私、高橋奈々子といいます。高橋直樹の娘です。あの、あの、澤田恭子さんの友人の高橋直樹です」

「えー、ちょっと待ってください」

インターホン越しに「おかあさーん」という声が聞こえる。インターホンが新たに呼びかけてくるまでの間、奈々子は早くここから立ち去りたいということばかり考えていた。しかし足が震えて逃げ出したくても逃げ出せなかった。

奈々子が大きく深呼吸をしているとインターホンから先ほどとは違う女性の声が聞こえた。その声は成熟した大人の声だった。

「はい、澤田恭子ですが」

「あの、宮崎恭子さんですか?私、高橋直樹の娘です」

奈々子が力を絞ってそう告げるとインターホンは静かになった。奈々子は祈るように次の言葉を待った。

「高橋さんの・・・。ええ、ええ、もちろんわかりますけど、どうしたの?なにか私に用事があるの?お父さんになにかあった?」

インターホンの声はどこか困惑しているようだった。

「いえ、父は元気です、とくになにもないです。私が、私がちょっと宮崎恭子さんに聞きたいことがあって、すいません、急にきてしまって、でも大事なことなんです」

インターホンは再び静かになった。奈々子は身体から力が抜けていく感覚に襲われた。立っているのがやっとだった。インターホンが再び〈宮崎恭子〉の声を届ける。

「うーん、よくわからないけど、今開けるからあがってきて。部屋は502号室だから」

「ありがとうございます」

インターホンが静かになるとエントランスのドアがゆっくりと開いた。震える足を引きずるように動かしながら奈々子はマンションの中に入り、エレベーターで5階に向かった。

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