【長編小説】父の手紙と夏休み 19

通された部屋は結構な広さのリビングだった。全体的に落ち着いた色の家具が置かれていた。奈々子はベージュのソファに腰かけ小林杏子がやってくるのを待っていた。エアコンの風は穏やかで今まで真夏の空気の中にいた奈々子には少し暑いように思えた。

使い古された扇風機がカラカラと音を立てながら天井に向かって風を送っている。壁にはどこか外国の海の写真がプリントされたカレンダーがかかっており、ときおりやってくる扇風機の風でバサバサと音を立てていた。窓の薄いカーテンが日差しを穏やかにして部屋の中へ運び、テーブルに置かれたガラス製の花瓶を淡く輝かせている。花瓶には小さなひまわりが数本刺さっていた。そして黒く光るアップライトピアノ。

奈々子はソファから立ち上がりピアノの前に立った。白と黒の鍵盤には埃ひとつなく、つやつやとして綺麗だった。人差し指で鍵盤を一つ押す。澄んだ音が部屋に響く。

「あら、あなたもピアノ弾くの?えーと、名前なんだっけ?」

「奈々子です」

小林杏子は麦茶の入ったグラスをテーブルに置き、奈々子の横に並んだ。

「ピアノは小学校の頃、授業で少し習っただけで全然弾けません。指がうまく動かないんです」

「まあ、あれも訓練だからね」

小林杏子はそう言って鍵盤に軽く指を走らせた。軽快なメロディが宙に浮く。

「さっきの曲、なんて曲ですか」

「さっきの?」

「私が来る前まで弾いてた曲です」

「あれはね、バッハの平均律クラヴィーア曲集っていうの。知ってる?バッハ」

「名前は聞いたことあります、小学校の頃・・・」

「そうね、あの髪の毛のすごい肖像画のね」

小林杏子はそう言って笑うと椅子に座り静かにピアノを弾いた。単調で穏やかで、それでいて心の奥にゆっくりと染みこんでいく音。小林杏子は一つの曲を弾き終わるとふっと息を吐いた。そして奈々子に視線を送ると小さく肩をすくめた。

「ピアノの先生なんですか」

「そう、たまに近くの子供たちにピアノを教えてるの。仕事ってほどじゃないけど、まあリハビリみたいなものね。ねえ、あっち行って座りましょう。話があるんでしょ」

小林杏子に促され奈々子はもといたベージュのソファに腰かけた。小林杏子は奈々子と向かい合うようにして一人掛けのソファに座った。

「奈々子ちゃん麦茶飲まない?外、暑かったでしょ」

「いただきます」

奈々子がグラスを手に持つと氷がカランと鳴った。小林杏子もグラスを手に取りゆっくり口に運んだ。グラスを持つ左手の薬指に銀色の指輪が光っていた。

「すごい田舎でしょ、ここ」

「はい、いえ、とてもいいところだと思います。空気も綺麗だし」

カーテン越しに差し込む日差しが伸びて花瓶のひまわりを照らしていた。ひまわりの黄色い花弁がその存在を際立たせていた。奈々子は生命力にあふれたその黄色をじっと見つめた。蝉の声が遠くで響いていた。

「そうね、少し退屈だけど私にはちょうどいいかな。都会は私には少し刺激が強すぎるから。そうだ、お父さんは元気?」

「はい、父は元気です」

「ならよかった。で、用ってなに?お父さんからなにか言われてきたの?」

奈々子は息を大きく吸い込み、言うべき言葉を心の中から探した。やるべきことをやらなければならない。聞くべきことを聞かなければならない。そのために〈小林杏子〉の家まできたのだ。

「いえ、父にはここにくることを言っていません。私が勝手に来たんです。小林杏子さんに聞きたいことがあって」

「なに?」

「小林杏子さんは父とどういう関係なんですか。父のことをどう思っているんですか」

小林杏子の持つグラスが小さな音を立てた。奈々子は自分の心臓が大きく鼓動するのを感じた。残っている麦茶を一気に飲み干し、小林杏子を見つめる。

小林杏子はぼんやりと壁のカレンダーを眺めていた。なにかを考えているような、なにかを思い出しているような、少し苦しそうな表情だった。奈々子はその顔の不思議な美しさに心を打たれた。父がこの人を愛した理由がなんとなくわかるような気がした。小林杏子は小さく息を吐き、奈々子に視線を戻した。

「麦茶、もう一杯どう?」

「あっ、はい、いただきます」

小林杏子は自分と奈々子のグラスを手に持ち部屋を出ていった。小林杏子のいなくなった部屋は空気が軽くなったように思えた。奈々子の頭に小林杏子の横顔が浮かぶ。そのどこか憂いを帯びた表情には奈々子には想像もできないような時間を過ごしてきた痕跡が認められた。細かく刻まれた皺は彼女が多くの出来事を経て今ここにいることを現しているように思えた。

奈々子に蓄積されていく成長という時間経過とは違う老いていくという時間経過。しかし彼女の老いの中には若い頃の記憶が確かに残っていた。その記憶が彼女を苦しめ、そして彼女を美しくさせていた。

奈々子は生命力に溢れたひまわりを見つめ、そして自分のことを思った。老いはまだ理解できないものとして存在していた。

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