【長編小説】父の手紙と夏休み 17

翌朝、奈々子はまた母にお弁当を作ってもらい、図書館が開く時間を見計らって外に出た。母から貰ったおこずかいに自分の貯金を足すと旅費には十分な金額になった。

「まずは、小林杏子さん」

自転車に跨りペダルを目いっぱい漕ぐ。蝉の鳴き声と風の通り過ぎる音が耳に心地よかった。坂道を下りながら空を見上げると空が勢いよく流れていた。

奈々子の目に映る風景はいつも流れていた。自転車に乗って見る風景、車の窓に映る風景、電車から覗く風景。奈々子にとって風景とは流れるものであり、一時もとどまらないものだった。とどまらない景色ととどまらない時間の中に奈々子の生があった。そして奈々子自体もとどまらないものだった。スピードをあげながら奈々子は〈小林杏子〉の顔を想像した。

駅の駐輪場に自転車を止め、額の汗を拭いながら改札へ向かう。財布からスイカを抜き取り改札機にかざす。ピッという電子音が夏の風に流れて消えていった。

太陽に焼かれた昼間のにおいに包まれながら奈々子はホームに立った。ホームにはワイシャツの袖をまくったサラリーマンや暑さにうんざりして座り込んでいる老人の姿があった。皆、どことなくもの憂げで退屈そうだった。それがこの気温のせいなのか大人はみんなああなのか見分けがつかなかった。空を見上げると小さな鳥の影がいくつか過ぎ去っていった。鳥たちは太陽を横切りホームからは見えない場所へと飛んでいった。

電車の到着を告げるアナウンスが響いた。ベンチに腰を下ろしていた老人は静かに顔をあげ、サラリーマンは地面に置いていたバックを持ち上げた。電車は夏の暑さなど気にしないかのように大袈裟な音を立ててホームに走り込み、そして重い身体を揺らしながら止まった。

ドアが開き幾人かの人が降り、幾人かの人が乗り込んだ。奈々子もその流れにのって電車の中に乗り込んだ。車内の冷たい空気が肌を冷やしていく。身体を覆っていた汗が少しずつひいていく。ホームにいたサラリーマンは奈々子のすぐ隣に立ち、ズボンのポケットから扇子を取り出して煽ぎはじめた。汗のすっぱいにおいが奈々子の鼻を衝いた。老人は親切な女性から譲られた席で居眠りをはじめている。窓の外を流れる景色は見慣れたものだが、それが今日はいつもより鬱陶しくなかった。

電車が線路を進む音と揺れる感覚は少しずつ〈小林杏子〉へ近づいているという興奮を奈々子に覚えさせた。奈々子は〈小林杏子〉の姿を想像した。静かでどことなく頼りなさげで、それでいて芯の強い女性。白い肌に整った顔立ち。目はひっそりと澄んでいて、口元は微かな微笑みをいつも浮かべている。頭の中に映る〈小林気杏子〉の姿に奈々子は自分の姿を重ねた。

父に愛された女性。そのことは〈小林杏子〉にとって幸せなことだったのだろうか。父の独りよがりではないのか。

奈々子は早く〈小林杏子〉から父の話を聞きたかった。

新宿駅で多くの人が降り、そこで空いた席に奈々子は座った。携帯電話を取り出して〈小林杏子〉が住んでいる街の駅を確認し、乗り換え案内で電車の乗継を確かめた。それが済むとあとは車窓を流れる景色に視線を向けた。

平日の電車は人も少なくのんびりしていた。太陽に照らされた街並もエアコンの効いた電車の中からはのどかに見えた。穏やかな雰囲気、ひんやりした空気、電車の走る音、揺れる感覚、奈々子はそれらに包まれながらゆっくりと眠りの中に落ちていった。

微かな夢を見た。どことなく哀しい夢だった。その感情を胸に残したまま奈々子は目を覚ました。電車は相変わらず規則的に進んでいた。電光掲示板を確認すると奈々子が降りる駅まであと二つだった。

奈々子は小さく伸びをしてから社内を見渡した。奈々子と一緒に乗ったサラリーマンと老人の姿はなかった。老人の座っていた場所にはベビーカーを持った女性がいた。女性はベビーカーの中の赤ん坊に何度も微笑みかけていた。奈々子は立ち上がりベビーカーの横に立った。赤ん坊は奈々子の顔を見上げると小さな声をあげた。奈々子が赤ん坊に笑いかけると女性は少し嫌な顔をした。

電車を乗り換えしばらく行くと窓の外の景色ががらりと変わった。派手な広告やネオンのついたビルは見えなくなり、畑や野原が広がっていた。遠くには小高い山があり、その山々はどれも濃い緑で覆われていた。夏の大気を全身に吸い込んだ木々はその生命力を思う存分外部に放ち、世界を飲み込んでしまいそうに思えた。

畑に植えられたトマトの赤が流れる車窓の景色の中でひときわ輝いていた。麦わら帽子を被った女性が畑に座り込み水筒からなにかを注ぎおいしそうに飲んでいた。女性の足元にはきゅうりの葉と蔦が茂り、そこから覗く黄土色の土は夏の過酷さを物語っているようだった。

奈々子はそこに現れた自然に心を奪われた。今まで特に気にして見たことのなかった木々や草花が頭の中に鮮明に映しだされた。それは生きている自然であり、膨れ上がっていく自然だった。普段、奈々子が目にするノートやコップや携帯電話とはまるで違う、あまりに無定形で無秩序なものたち。斑な色に歪な形。どんな有用性にも回収されない無意味性。それらは奈々子を感動させた。

しかし、その奈々子の感動にも自然はまるで無関心だった。自然の圧倒的なまでの無関心さが奈々子を包んでいた。自然はただ奈々子の目の前にあり、奈々子はそれを無防備に受け入れるしかなかった。そしてそれが心地よかった。

目的の駅に降り立ち、奈々子は手を額にかざして空を見上げた。

「ここに小林杏子さんがいるんだ」

蝉の声は都会より一層やかましく、空気は澄んでいいにおいがした。駅前に人気はなく、数台の暇そうなタクシーが太陽の光を浴びてじりじり焼かれているだけだった。

奈々子はメモ帳を取り出して住所を確認し、駅員にそこまでの行き方を尋ねた。駅員は額の汗をハンカチで何度も拭きながらその住所までの行き方を教えてくれた。

行き方は奈々子が思っていたほど難しくはなかった。駅前のバス停でバスに乗り、「公園前」というところで降りる。そこ一帯は住宅地になっており、そこのどこかに〈小林杏子〉の家はあるとのことだった。

奈々子は好奇心に胸を躍らせながらバス停でバスのやってくるのを待った。暑さは都会ほど嫌な気分ではなかった。お腹が空いたのでバックからおにぎりを取出し、一つ食べる。おかかの塩辛さに唾液が沸き、頬が引っ張られたように痛くなった。

おにぎりを食べ終え、近くの自動販売機で冷たいお茶を買って戻ってくるとバスがやってきた。奈々子はバスに乗り込み近くの席に座ってお茶を飲んだ。エアコンの風が涼しく、喉を通るお茶の爽やかな香りが気分をよくさせた。

バスはしばらくの間、エンジンをかけたまま止まっており、乗客が何人か乗り込んできた。腰の曲がった老婆がゆっくりと乗り込むと「ブー」という音が鳴り、バスはゆっくりと走りはじめた。電車とは違う揺れ方をして進むバスは自分が夏休みの中にいることを再確認させてくれる。奈々子は窓の外を眺めながら残りわずかな夏休みを思った。

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