【長編小説】父の手紙と夏休み 27

それから奈々子は自分の部屋に籠って過ごすことが多くなった。〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉の言葉を思い出し、それをノートに書き写した。父と二人の〈キョウコ〉の過ごした時間を想像した。『ノルウェイの森』を読み返すと、それは初めて読んだときとはまた違った意味を帯びているように思えた。

『直子』に含まれる〈小林杏子〉的な部分、『緑』に含まれる〈宮崎恭子〉的な部分、『僕』に含まれる父的な部分、それは近いようでもあり遠いようでもあった。

父が重ねたのはそういった似かよっている部分や構造ではなく、『ノルウェイの森』そのものが持つ普遍性なのではないか。自分も普遍的な世界に含まれた一人の人間なのではないかという父の考えがあの手紙を父に書かせた、父は自分個人を探っていくうちに世界の普遍性に辿りついたのではないか。

そういった考えは普段の父からは想像できなかった。そんなことを考えているようにはまるで見えなかった。でもきっと父はそんなことを考えていたのだろう。

奈々子は父と〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉の考えを想像し、それを自分の中に溶け込ませていった。そうしているうちに夏休みは残りわずかになっていた。

母がテーブルの上に料理を並べていく。トマトとレタスのサラダ、冷奴、茄子の煮浸し、豚の生姜焼き。生姜焼きの香りに奈々子は食欲をそそられた。母がよそってくれたご飯を生姜焼きとともに口にいれる。豚の脂と生姜の香りに誘われて奈々子はご飯を二杯食べた。食事を終えて緑茶を飲んでいる奈々子を母はあきれたような顔で眺めていた。

「お父さん、明日帰ってくるって」

母は自分の皿の生姜焼きを箸でつまみ口に入れた。茶碗にはご飯がまだ半分残っていた。

「ふーん、お母さんって食べるの遅いよね」

「あんたが早すぎるのよ。早食いは太るらしいわよ」

「べつに。私、太んないし」

「今のうちだけよ。あっという間に年取るんだから」

奈々子は緑茶を飲み終えた後も椅子に座ってぼんやりと母が食事をする姿を眺めていた。母は料理を箸で小さく切り、それを丁寧に咀嚼してから飲み込んでいた。

「なにそんなにお母さんのこと見てるの?食事が終わったんなら早くお風呂入って勉強しなさい」

「ねえ、お母さん。お母さんとお父さんってどうやって出会ったの?」

「なに、急に」

母は茶碗に残った米粒を箸で綺麗に掴み、口に入れた。

「お母さんとお父さんがどうやって結婚したのか知りたい」

母は自分の茶碗をシンクに入れ、残った惣菜にサランラップをかけた。

「べつに普通よ。普通の恋愛結婚」

「あと、お父さんの病気のこと」

サランラップ引っ張る母の手が一瞬止まった。しかしその手はすぐに普段通りの家事に従事しはじめた。母は惣菜を冷蔵庫にしまい、シンクに水を溜めた。水道の音が部屋に響く。

母はしばらく黙ったままだった。その間、奈々子はシンクの前に立つ母の後ろ姿を眺めていた。母の背中は〈小林杏子〉とも〈宮崎恭子〉とも違っていた。母は蛇口をひねり、水道を止めた。

「お父さんの病気のこと、どうして知ってるの?」

「お父さんパソコン使ったとき、たまたま」

母は振り返り、奈々子を見つめた。その眼差しは真剣なものだった。奈々子はその眼差しに臆することなく母の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「そうね」

母は大きく息を吐いた。

「奈々子も自分のことを理解していた方がいいのよね。もう一七歳だしね

母は奈々子の向かいに座った。

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