【長編小説】父の手紙と夏休み 29

母は麦茶を一口飲んだ。そして冷蔵庫をちらっと見つめた後、また奈々子に視線を戻した。

「結婚してからもお母さんとお父さんの関係はそんなに変わらなかった。そりゃ結婚したからお互い責任はあるし、両方の両親や親戚にも気を使うことはあったわ。でも、それを抜かしたら付き合ってた頃とそんなに変わらない生活だった。

お父さんは相変わらず小説の話をするし、お母さんはそれを、はいはい、って聞いてた。これからずっとそうやって生きてくんだろうなって思ってた。そんなときにお母さんのお腹に奈々子が宿ったの」

奈々子は瞬間的に身体が震えるのを感じた。テレビを見ていたら急に自分の名前を呼ばれたような気分だった。母はそんな奈々子の様子を特に気にすることもなく先を続けた。

「子供を作るっていうことに関して、お母さんとお父さんはよく話し合ったわ。特にお父さんが慎重だった。自分の病気だったり傾向が遺伝する可能性がどうしても頭から離れなかったらしいの。絶対に遺伝するってわけじゃないにしても、普通の人よりは遺伝する可能性が高い、そういう数字を見ちゃうとどうして慎重になるのよ。

数字の多少じゃないの、そういう数字があるってことだけでもう心が動揺しちゃうの。そんな数字があることを知らないときより1%でも可能性があるって知ってるときの方が慎重になるのよ。人ってやっぱり不思議よね、可能性があるってだけで、もう目の前にそれが起きているような気がしちゃうの。それでそうなったらどうしよう、そうなるくらいならしない方がいい、そう思うの。

お父さんほどじゃないけど、お母さんもそういう可能性に振り回されたことがあったわ。そんな可能性を子供に背負わせるくらいだったら子供なんか作らない方がいいって。だからずっと避妊には気を付けてた。完全な避妊だったと思うわ。それはもう神経質なくらい。でも、奈々子がお母さんのお腹に宿ったの。

お父さんとお母さんは二人でびっくりしちゃって、どうしてどうしてって。でも現実にお母さんのお腹には赤ちゃんがいるし、それはなにをどう考えても本当のことだったの。

お父さんはそれからもずっと悩んでたみたい。このままこの子を現実の世界に連れてきてしまっていいのかって、生まれてから苦しい思いをするんじゃないかって。そういうところお父さんって悲観的なの。

お母さんも最初は驚いたしどうしようか迷ったわ。でも、自分のお腹の中に新しい命が宿っているんだと思うとなんだか強い気持ちになってきて。無責任かもしれないけど、この子は大丈夫、きっと幸せになる、そう思えた。お父さんはいつまでもぐずぐず考えてたけど、実際に赤ちゃんがいるのは私のお腹の中だし、お父さんがなんと言おうと生むか生まないかは最終的に自分が決めるんだって考えてた。お母さんはこの子を生みたい、この子と一緒に生きたいって強く思ったわ。そういうお母さんの強い気持ちが少しずつお父さんに伝染していって、お父さんも自分の子供を持つってことを受け入れていったの。

お母さんから見たらお父さんは少し奈々子に甘すぎるような気がするし、それはきっと自分の身体だったり人生を悲観的に見すぎているからなんだと思う。お父さんの人生は、まあそれなりにいろいろ苦労もあったのだろうけど、傍から見たらそんなに悪いものじゃないのよ。そんなに人生を悲観されちゃったら結婚したお母さんの立場がないじゃない?奈々子だって嫌よね?

確かにお父さんには弱い部分があるし、奈々子にもその弱い部分が引き継がれている可能性はあるわよ。でも可能性っていったら奈々子にはもっとたくさんの可能性があるはずじゃない?そんな一つの可能性だけに囚われて他の可能性に目を向けないなんてバカだとお母さんは思うの。

奈々子がお母さんのお腹の中に宿ったのは偶然かもしれないけど、奈々子をこの世界に向かい入れたい、奈々子がこの現実の世界で幸せになっていく姿を見たい、そう思ったのはお母さんの意思なの。そしてお母さんは奈々子にたくさんの可能性を見せてあげたい。その中から奈々子が自分なりの生き方を選び取って、前向きに豊かに生きてくれれば、お父さんも自分の人生を肯定的に受け止めることができると思うの。

奈々子がお父さんの人生に責任を負う必要はないんだけどね。ほんと情けないお父さんね」

母は話し終えると優しく笑った。奈々子は自分の感情がうまく理解できなかった。自分が今、なにを思っているのか、なにを感じているのか、言葉にすることができなかった。ただ静かに泣いた。母は棚からティッシュをとり奈々子に渡した。そして「大丈夫、自分が思っていることをしなさい」と言った。

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