【長編小説】父の手紙と夏休み 28

「別に今までわざと黙ってたわけじゃないのよ。特にする必要はなかったし、このままなにもなかったことにしたって問題ないとも思ってたのよ。お父さんは、まあ薬はたまに飲むけど、別に普通だし、奈々子だって健康に育ってる。あまり深刻に考える必要はないんだって思ってた」

奈々子は黙って頷いた。

「お父さんとは大学の先輩の紹介で知り合ったの。お母さんの大学の先輩とお父さんが同じ職場で、先輩に誘われた飲み会にお父さんがいたの。

はじめてあったときのお父さんはあまり印象に残らなかったかな。よくいる普通の男の人で、少し軽いなって感じたくらいかな。それからもたまに先輩に誘われてお父さんと飲むようになったの。お父さん、小説好きでしょ?お母さんも英文科だったから小説の話で盛り上がることが多かった。そうしているうちにだんだん先輩を交えずに二人で飲むようになったの。

軽い人だなって思ってたけど、お父さんって案外情熱的なとこがあって、特に小説に関しては自分なりの考えを持ってた。お母さんは英文科で勉強してたけど、そんなに深く考えてなかったし、ただ英語が好きだなとか小説を読むのが好きだなくらいだったから、お父さんくらい熱中して小説のことを考えている人がいるのが少し珍しかったの。

だって社会人になってまだ「お話」のことを真剣に考えている人ってそんなにいないのよ。みんな自分の今の仕事だったり、生活のことでいっぱいになっちゃってそんなこと考えなくなるのよ。小説を読むのはたまの息抜き、疲れたときの現実逃避、みたいなね。

でもお父さんは現実の方に興味がなくて、常に小説の世界にいようとしてた。この人は別の世界にいるんだなってお母さんは思ったわ。この人は「お話の国」の住人なんだって。

いい年した大人がバカみたいよね。でも、お母さんはなんとなくそのお父さんに惹かれていったの。頼りなかったし、もっと大人になればいいのにって思ったけど、でもなんとなく心配でいつも気になってた。お父さんと飲みにいってお父さんの話を聞く時間が好きだった。

でもお母さんからお父さんに好意は伝えなかった。お父さんはそういう雰囲気を避けているような気がしたし、他に好きな人がいるんだと思ってた。お母さんも特に結婚を焦ってたわけではないし、まあしばらくこのままでもいいかなって思ってた」

母はそこで言葉を切ると立ち上がって冷蔵庫から麦茶をだしてコップに注いだ。二つのコップをテーブルに置き、一つを奈々子に渡した、奈々子はコップを両手で握りしめた。手のひらがじんわりと冷たくなっていく。母は椅子に戻り、麦茶を一口飲んだ。

「そんな関係が二年ぐらい続いたかな。そのくらい時間が経つとお母さんもその関係に慣れてきちゃって、とくにどうしたいってのもなかった。

でも、あるとき。急にお父さんに付き合ってほしいって言われたの。お母さんびっくりしちゃって、そんな関係じゃないでしょって言っちゃたの。だってそれまでまるでそんな雰囲気がなかったんだから。

そしたらお父さん笑ってね、それでも知ってもらいたいことがあるって言ったの。それからお父さんは自分の病気のことを話したの。小説家になりたかったこと、その途中で病気になったこと、病気のときの自分がどんなだったかってこと、それから二人の女性に恋をしたこと。自分がもしこのまま死んでしまったら誰も知らないままだし、誰かに知ってもらいたかったって。

でも、お母さんはずるい話だと思ったわ。お母さんに告白した後、すぐに他の女性に恋した話しするなんて、なんかバカにされてるって思ったわよ。そんな話を聞かされてあなたと付き合うと思ったの?って聞きたかったわ。そこらへん、お父さんって少しずれてるのよね。じゃあ、これからもその女の人のことを考えて生きてなさいって言っちゃったわよ。そしたらお父さん、哀しそうな顔してね。その日はそのまま別れたわ。お母さんはもうお父さんと会うことはないんだなって思った。ちょっと残念な気もしたけど、それよりバカにされたことに腹が立ったの。

でも、お父さんはなんにもなかったみたいにまたお母さんを誘うし、最初は断ってたけど、なんだか段々そんなこと大したことじゃないんじゃないかって気がしてきたのよ。それでお父さんの誘いにのって飲みに行ったら、お父さんは前と変わらないように小説の話をするの。

ああ、この人、私と感覚がまるで違うんだってそう思ったわ。そしたらなんだか全部どうでもよくなっちゃって、考えるのがバカみたいに思えちゃって、はいはい、もうあなたの好きにしてください、もうあなたに全部任せますってそんな気分になっちゃったの、不思議な話だけど。

それでいつの間にか付き合うことになって、同棲するようになって、それで結婚したの。結婚するとき、お祖父ちゃんがずいぶん反対したけどね、でもまあ結婚しなくてもいっかみたいな気分になったら、許してくれるようになって。人って不思議ね、あきらめると上手くいくみたい。それでお母さんとお父さんは結婚したの」

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