【長編小説】父の手紙と夏休み 23

宮崎恭子はドアを開けて玄関で出迎えてくれた。その姿を見たとき、奈々子は思わず息を飲み込んでしまった。

ほっそりとした顔立ち、白く澄んだ肌、理知的で大きな瞳、首が隠れる程度に伸びた僅かに癖のある黒い髪、シンプルだがどことなく品のある服装に柔和な佇まい。

昔、父が見ていた白黒の映画の中にでてきた女性みたい、奈々子の頭にその光景が浮かぶ。肖像画の女性とそっくりな女性に恋をする中年の男性の話、いつもお父さんはそれ見てたな、私は退屈で寝ちゃったけど。

奈々子が宮崎恭子をぼんやり眺めていると宮崎恭子はにっこり笑って「いらっしゃい」と言った。目元や口元に刻まれた細かな皺や目の下の微かな隈は、疲労や倦怠を表すのではなく、健全な年月を過ごした証のように彼女によくなじんでいた。

奈々子は深く頭をさげ、突然の訪問を詫びた。そんな奈々子の姿を宮崎恭子は興味深そうに眺めていた。

「お母さん、その人だれ?」

玄関の奥から奈々子と同じような年齢の女性が顔を出した。その姿は宮崎恭子とよく似ていた。宮崎恭子の成熟した女性の落ち着きとは違うが生命力に満ち溢れた初々しい美しさがそこにはあった。奈々子はわけもなく恥ずかしくなって下を向いた。

「お友達よ、お母さんの。古いね」

「友達?私と同じくらいじゃない」

宮崎恭子の娘は不思議そうに奈々子を眺める。

「えーと、なにちゃんだっけ?」

「奈々子です」

「お年は?」

「十七です」

「理香の一つ下ね。ああ、この子は理香、澤田理香。私の娘よ。大学一年生」

理香と呼ばれた女性は奈々子に小さくお辞儀をする。奈々子も同じように頭を下げた。

「理香、ちょっと外で遊んできて。お母さんはお友達とお話があるから

「えー、いきなり言われても」

「図書館でも行って勉強してきなさい」

「勉強はしばらく勘弁です」

理香はそう言って舌をだした。

「なに言ってんの。大学は勉強するところよ。遊ぶために行かせてるわけじゃないんだから。ほら早く行きなさい」

「はーい。じゃあお金ちょうだい」

「図書館はただでしょ」

「大学の友達とお茶してくるから。図書館はまた今度」

「はいはい、まあいいわ。キッチンのテーブルの上にお母さんのお財布あるからいくらか持ってきなさい。いい?今日だけよ。今日は珍しいお客さんがきてるから特別。奈々子ちゃん、どうぞお入りください」

宮崎恭子は手をひらひらさせて奈々子を家の中に招き入れた。奈々子はまるで自分と母のようなやりとりに思わず微笑みながら宮崎恭子に従った。

ベージュのソファに腰かけ、奈々子は部屋を見渡した。〈小林杏子〉の家と比べるとどこか人工的な雰囲気に満ちていた。茶で統一されたソファ、つやつやと光る木製のテーブル、フローリングの床にはベージュの絨毯が敷かれている。どれも丁寧に掃除され全てが清潔に保たれていた。

ダイニングの奥にはキッチンがあり、食卓用のテーブルと椅子が4脚きちんと並べられている。天井からは菱形の照明が二つぶら下がっていた。木目を中心に柔らかく暖かな色で統一されている部屋。

その寛ぎをテーマに作られたに違いない室内は奈々子をどこか落ち着かない気持ちにさせた。キッチンの奥でお茶を注いでいる宮崎恭子はこの部屋にしっくりとなじんでいる。やはり自分は部外者なのだなと奈々子は感じた。そう感じたのは宮崎恭子のあの美しさのせいなのかもしれない・・・。

小林杏子は気配によって自分の存在を表していたが宮崎恭子の存在はその圧倒的なまでの肉体性だった。彼女の美しさが、その肉体的な美しさが、彼女をここに存在させているのであり、彼女がどれだけ隠そうともそれは強い実在感をもって人を圧迫する。

陶器のポットでお茶を注いでいる宮崎恭子を眺めながら奈々子はあんな綺麗な人の人生とはどんなものなのだろうと考えた。それはそれで大変なのかもしれない・・・。人に否応なく見られる存在、人に見られ人に現実を突きつける存在。

宮崎恭子の強い存在感にあてられた奈々子は視線を逸らし、壁にかかっている一枚の絵を眺めた。それは外国の女性の絵だった。胸元の開いた白いドレスを着た綺麗な女性。絵自体が白くぼんやりとした印象で、そこに描かれた女性と背景が混ざり合い女性の輪郭は曖昧だった。その淡く白い色調の中で女性の栗色の髪と黒い瞳が女性の存在を強く主張していた。淡く柔らかく美しさを主張する絵。まるでこの部屋と宮崎恭子みたいだ、奈々子はそうぼんやり考えた。

「ルノワールよ、もちろんレプリカだけど」

宮崎恭子はお盆にのせたカップを奈々子の前に置いた。紅茶のいい香りが奈々子の鼻をついた。

「ルノワール?」

「知らない?昔の絵描きさん、印象派の」

「宮崎恭子さんみたい」

「べつにそういう意味で飾ってあるわけじゃないのよ。そこまで私は自信過剰じゃないわ」

奈々子「いただきます」と言っては紅茶を口にした。茶葉の香りと渋みがよくわかる紅茶だった。宮崎恭子は奈々子のはす向かいに座り壁の絵を眺めた。

「ルノワール、これね、奈々子ちゃんのお父さんとも関係があって」

「父が?」

奈々子はカップをテーブルに置き、宮崎恭子の顔を見つめた。

「そう、なんだか笑っちゃうんだけど。私と奈々子ちゃんのお父さんは同じ職場で働いててね。奈々子ちゃんのお父さんが急に私に、宮崎さんはルノワールの描く女性に似てますね、って言ってきて。私、訳がわからなくて、前後の文脈がないのよ、急に。それで一人で納得して。私、褒められてるのかバカにされてるのかわからなくて、変な人って思ったわ。あっ、ごめんね。私、なんでもはっきり言っちゃう方だから奈々子ちゃんが傷ついたら謝るわ」

「いえ、気にしないでください」

宮崎恭子はカップを持ち上げて紅茶のにおいを嗅いだ。そして少しだけそれを飲んだ。

「でも、それからなんとなくルノワールが好きになっちゃって。さっきも言ったけど別に自信過剰じゃないわよ、私。そういう意味で奈々子ちゃんのお父さんは変な影響力があるのよね。お父さん元気?」

「はい。普通に会社に行ってます」

「そう」

宮崎恭子はカップをテーブルに置き静かに微笑んだ。その微笑みは彼女の習慣のように自然で美しかった。奈々子はまた自分が緊張していくのがわかった。

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