【長編小説】父の手紙と夏休み 18

小銭を支払い、奈々子は勢いよく「公園前」に降り立った。名前の通り目の前に公園があり、子供たちの元気な声が聞こえた。「ブー」という音に振り返ると、バスがゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。バスの後ろ姿が揺らいで見え、日の光が一層強く感じられた。

公園の周りは住宅街で同じような家々があまり間隔を開けずに並んでいた。奈々子はメモした住所の番地を確認し、立ち並ぶ家々の表札を一つずつ丁寧に読んでいった。

公園から遠く離れると辺りはひっそりしはじめた。ときおり子供の叫ぶ声や犬の鳴く声が聞こえたが、明確な意味を持った言葉はなにひとつ聞こえてこなかった。うだる暑さにうんざりしながら奈々子はペットボトルのお茶を飲み、ハンカチで汗を拭いた。電柱に張りつけられた番地の表示を確認すると〈小林杏子〉の家はすぐそばだと知れた。あとはその家を特定するだけだった。

近くの家で花に水をあげている老人にメモを見せ〈小林杏子〉の家を訪ねる。老人は目を細めてメモを眺め、しわがれた声で丁寧に場所を教えてくれた。奈々子は大きな声で礼を述べ、花が綺麗なことを大袈裟に褒めてから老人と別れた。教えられた道を歩きながら老人のまるで汗をかいていない顔がふと頭に浮かんだ。しかしそのイメージもすぐに〈小林杏子〉に会える感激にとって代わられ、老人の記憶は頭の奥にしまいこまれていった。

すぐ近くにいる〈小林杏子〉のことを考えながら早足で歩いていくと微かにピアノの音が耳に響いた。その音は奈々子が進むたびに大きくなっていく。音の一つ一つが明確で単調なようにも聞こえる旋律。それでも音は切れ目なく続き、奈々子の中の感情を揺り動かす意味を作り出す。今、耳に響いている音は一つ前の音の記憶を呼び覚まし、奈々子の中でメロディを形作る。記憶と知覚が音楽を奈々子の中に充満させる。

「これ、なんていう曲だろう」

音の快楽に浸りながら奈々子はぼんやりと歩いていく。次第に大きくなっていく音。音に導かれるように前に進む奈々子が立ち止った場所は〈小林杏子〉の家だった。

灰色の屋根に白い壁の一軒家。二階のベランダには洗濯物が干され、微かな風に吹かれてひらひらと舞っていた。庭には小さな花壇があり、サルビアとマリーゴールドが綺麗に咲き誇っている。

奈々子は「大塚」と書かれた表札をじっと眺めた。

ここが〈小林杏子〉さんの家だとして・・・。

奈々子は自分がなにを言って〈小林杏子〉に会えばいいのかさっぱりわからなかった。来てはみたもののどんな理由で訪問を告げればいいのか。照りつける日差しのせいか頭がうまく働かなかった。父の名前だけがぼんやりと浮かんでいた。鳴りつづけるピアノの音は思考を旋律に変えていく。奈々子はなにも考えないまま玄関のインターホンを鳴らした。

ピアノの音がぴたりと止まった。音楽が消えると不安がどんどん大きくなっていくように思えた。心臓の音が耳に重く響いた。とても長い時間が過ぎたような気がした。

玄関のドアがゆっくりと開き、そこから一人の女性の顔が覗いた。女性は奈々子を見ると怪訝な顔をして「どちらさま?」と聞いた。奈々子はその女性を見つめたままじっと立っていた。言葉がうまくでてこなかった。なにか言おうとするのだが「あっ、あっ」という息が漏れるだけで、まるで自分がバカになったように思えた。

女性はドアの前に立ち、奈々子がなにかを言うのを待っている。そこにはどことなく優しい雰囲気があった。

「あの、小林杏子さんですか」

奈々子は大きく息を吸い込み精一杯の声で女性に呼びかけた。女性はすこし驚いたような顔をしたがすぐに表情をもとに戻し「はい、そうですが」と言った。

「あの、あの、私、いえ、私の父が、その、私、高橋直樹の娘です。その、もしかして、父をご存じじゃないですか。その、昔、というか、年賀状で、そう、あれ?あれ?」

「あー、直樹のお子さん?」

女性の顔に晴れやかな笑顔が浮かんだ。その表情に奈々子は心が軽くなったような気がした。女性はまるで動物園のパンダを見るような好奇の目で奈々子を眺める。

「へー、直樹の娘さんねー。へー、こんなに大きいんだ。うんうん、それでどうしたの?私になにか用?お父さんはいないの?」

小林杏子の気さくな話しぶりにすっかり安心した奈々子は改めて彼女の姿を眺めた。うっすらと茶色く染められた髪は肩まで伸び、日の光に照らされてきらきらと光っている。奥二重の目、少し高い鼻、ぷっくりとした唇。目元と口元に細かな皺が刻まれている。肌は白く、全体的にふっくらとした体つきだった。奈々子は想像していた〈小林杏子〉さんとは違うなと思いながらも目の前の女性に好感を抱いた。

「ねえ、どうしたの?お父さんは来てないの?」

「はい、父は今日はいません。私一人です。小林杏子さんに聞きたいことがあってきました。話を聞いてもらえますか」

小林杏子は奥二重の目を大きく見開いて奈々子を見つめ、そして静かに笑った。笑うと口元の皺が一層深くなった。

「ここ、暑いわよね。中に入って。お茶でも飲みましょう」

小林杏子はそう言うと奈々子を家の中に招き入れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?