【長編小説】父の手紙と夏休み 20

「はい、お待たせ」

小林杏子は麦茶が入ったグラスを奈々子の前に置いた。奈々子は小さくお辞儀をした。グラスの中の氷は新しくなっていた。それが麦茶の中をクルクルと回っていた。グラスに触れるとひんやりと冷たかった。小林杏子は奈々子の前に座り、麦茶を一口飲んだ。そしてそれを置き、自分の左手を静かに眺めていた。

「私の旦那さんはね、とてもいい人なの。私はちょっと精神的に弱いところがあって。それでたまにダメになるときがあるの。なんにもやる気がしなくなって。こういうのって気の持ちようみたいに思うかもしれないけど、でもね、ダメなときはダメなの。そういうものなの」

小林杏子は奈々子に視線を投げかけた。奈々子は小さく頷いた。

「旦那さんはね、そういうこともわかってくれて、それで家でのんびりしながら少しずつよくなっていったらいいって、ピアノ教室も旦那さんが勧めてくれて、それで少しずつ子供たちに教えながら、だからこれはリハビリなの。私が回復するための。そういう環境を旦那さんが整えてくれた。私はやっぱり自分で働いて自分の生活くらいはどうにかしなきゃいけないって思ってたけど、でもだめね、甘えちゃって。そういう考え方はよくないって旦那さんはよく言うけど、ほら、やっぱりされっぱなしって申し訳ないじゃない?」

「まだ調子がよくないんですか?」

「ううん、今は落ち着いてる。でもね、たまにどうしてもダメになっちゃうの。それって自分でもどうしていいかわからなくて、怖いのね、きっと、いろんなことが」

奈々子はまた小さく頷いた。

「お父さんには私のことどこまで聞いた?」

「いえ、直接聞いたわけではないですけど、ただ小林杏子さんを好きだったと、守ってあげなきゃいけないと、そんな感じのことが」

小林杏子は困ったように微笑んだ。その表情は今にも消えてしまいそうなものだった。

「男の人ってみんなそうよね。そう思われることが私にとってどんなに苦しいことなのかわかってもらえないのよね。嬉しいわよ、そうやって私のことを思ってくれるって。でもなんか申し訳なくなるのよ、哀しくなっちゃうの。自分がどうしようもなくダメな存在なんじゃないかって、そう思っちゃうの。守ってほしくないわけじゃないけど、でも私ってそんなに弱い存在?そんなに私って不幸なの?そんなのって男の人が勝手に想像してるだけじゃない。それってずるいと思わない?」

麦茶の入ったグラスが汗をかいていた。テーブルの上が少しずつ濡れていく。

「奈々子ちゃんのお父さんもね、とても私の心配をしてくれた。申し訳なくなるくらいにね。でも私にはそれが嫌だった。なんて言ったらいいのかな、そう、公平じゃないような気がしたの。私は確かにダメになることがあったけど、それでもしっかり自分の生活をしてきたのよ、みんなと同じようにね。それを全く無視してあなたは可哀そうな人だって。そう思われるのってなんか癪じゃない?

それにあなたのお父さんも精神的に強い方じゃないから。なんかそういうことを考えると、うまく言えないんだけど、この人と一緒にいれないかなって。自分がダメになるっていうか、相手もダメになるっていうか、お互いどこにもいけなくなっちゃうような気がしたのよ。

もちろんあなたのお父さんはいい人よ。それは保障する。でもね、一緒にいる人じゃないの。これって奈々子ちゃんにひどいこと言ってる?」

奈々子は黙って首を振った。

「私とお父さんがどういう関係かって聞いたわよね。あなたのお父さんも精神的にまいってしまったことがあって、それから少しずつ私たちの間に距離ができるようになって、それが良かったのかもしれない。今でもこうして連絡をとってるのはそうやって距離ができたからなのよ、きっと。場所的な距離があって、精神的にも距離がとれるようになった。それは私にとってとても楽だったの。あのころはなんか必死すぎたのよ、特にあなたのお父さんがね。あなたのお父さん、思い込みが激しい人だから」

小林杏子はそう言って微笑んだ。奈々子もその笑顔につられて小さく笑った。

「でも、やっぱりあなたのお父さんに会えてよかったんだと思う。不幸って思われるのは嫌だけど、それでもやっぱりダメになるときっていうのはあって、そういうときにあなたのお父さんに救われたってことはあるわよ、本当に。それにあなたのお父さんがダメになりそうなときに私が支えてあげたってことだってあると思うのよ、私の思い込みじゃなくて。そうやってお互い励ましあって生きてきた時期は確かにあった。

奈々子ちゃんはこれからの人だし、まだよくわからないこともあるかもしれないけど、現実の世界っていうのは、なんていうか、やっぱり厳しいの。つらいことや苦しいことがいっぱいあるの、少なくとも私はそう思ってるしあなたのお父さんもそう思ってると思う。その厳しい現実の中で頑張って生き延びてきた、一緒に戦ってきた、そう思える人なんだと思う、あなたのお父さんは。

戦友っていうのかしらね。恋人でもないし、夫婦でもない、男女の関係性とは違うものなのかもしれない。でも一緒に戦ってきた人がいるっていうのは心強いものなのよ。愛情と友情の間みたいな。あなたのお父さんがどう思ってるかわからないけど」

小林杏子が口を閉じると部屋の中はひっそりとした。蝉の声と扇風機のカタカタという音が奈々子の耳に重く響く。花瓶のヒマワリは相変わらず鮮明に奈々子の瞳に映り、グラスの麦茶はその色を淡くさせていた。日差しは部屋を暖かく包み、光の届かないピアノはその影を濃くしている。

奈々子がグラスを手に持つと小林杏子は「どう、もう一杯」と聞いた。奈々子は黙って首を振った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?