【長編小説】父の手紙と夏休み 26

奈々子が答えるのを待たず宮崎恭子は席を立った。自分と奈々子のカップを手に取り、キッチンへとすたすた歩いていく。その後ろ姿を見ながら奈々子は〈小林杏子〉のことを思い浮かべた。

二人の〈キョウコ〉はまるで違っている、容姿や性格もそうだが本質的なその存在の在り方そのものが違っている、そう奈々子には思えた。生きてきた道の違いなのか、それとも生まれ持った特性なのか、奈々子にはその判断はつかなかったが、このまるで違う二人の〈キョウコ〉に父は自分の物語を感じ、生きてきた。

そうさせたのは〈小林杏子〉の虚ろな気配なのだろうか、〈宮崎恭子〉の現実的な美しさなのだろうか。

奈々子は壁にかかったルノワールの絵を眺めた。そして「幻影」と思った。

紙の上にぼんやりと浮かび上がる美しい女性。ルノワールという人はこの女性をどんな気持ちで描いたのだろう、奈々子は静かに考えた。

絵を描く人は現実をありのままに写すのだろうか、それとも自分の心に浮かんだ幻影を描くのだろうか。父があの手紙を書いたとき、それは現実を写したのだろうか、自分の中の幻影を書き連ねたのだろうか。

奈々子はキッチンで紅茶を入れる宮崎恭子の姿に視線を移した。

父は現実の中に自分の幻影を投影した。〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉は現実に存在していると同時に父の中だけに存在している。奈々子には言葉でなく感覚でそのことが了解できた。

花のような香りの紅茶を持った宮崎恭子が戻ってくる。「どうぞ」と奈々子の前でカップを回し、いつもの習慣的な笑みを浮かべた。その笑みを見た奈々子は現実と幻影にどれだけの違いがあるのだろうと思った。そして父もそう思ったに違いないとも。

現実の〈キョウコ〉も幻影の〈キョウコ〉も父にとっては愛すべき対象だったのだろう、いや、二つは混ざり合ってはじめて〈キョウコ〉だったんだろう。きっと恋をするってそういうことなんだ。

「紅茶、どう?」

「おいしいです、すごく」

「よかった」

宮崎恭子はテーブルに肘をつき頬に手をあてて奈々子を見つめた。

「あまりお父さんに似てないわね」

「そうですか?」

「うん、でも目元が似てるかな、少し」

「自分ではよくわからないです」

宮崎恭子に見つめられ奈々子は恥ずかしくなり下を向いた。

「あの、私、もう帰ります」

「あら、まだいいじゃない。紅茶も入れたばかりだし」

「いえ、帰って勉強しないと。母が」

「そう。受験生だもんね」

宮崎恭子は立ち上がり、奈々子を玄関まで案内した。玄関のドアを開け外に出ると夏の空気に包まれた。熱気と湿気とアスファルトの焼けるにおい。奈々子は輝く太陽を見上げた。

「ねえ、最後に少しだけ話していい?」

宮崎恭子の言葉に奈々子は後ろを振り返った。宮崎恭子は腕を組んでドアにもたれかかっていた。

「今までだれにも言ったことないの。不思議な話だし、なんだか恥ずかしくて」

「はい」

「十年くらい前かな、夫は泊りの仕事で、理香は友達の家に泊まりに行ってて、私一人のときがあったの。

その夜、私はうまく眠れなくてベッドの中で何度も寝返りをうってた。頭は少しずつ眠りの方にいくんだけど、なにかが眠ることを妨げてた。夢とも思考ともつかないイメージに満たされて、でも私は自分が起きていることをはっきりと自覚していた。なぜって身体の感覚がどんどん敏感になっていくのがわかったから。肌に触れる布団の感触とか枕のにおいとか。空気の流れさえその時の私には感じられた。

そして私は今までに感じたことのない幸福感に包まれたの。悦びが胸を締めつけて身体が震えるの。快楽に満たされたの。そしてそれがいつまでも続いた。私はベッドの中でずっとその快楽を受け入れていた。

それが去って、ベッドから出て時計を見ると夜中の三時だった。そのときなぜか奈々子ちゃんのお父さんの顔が浮かんだの。ほとんど忘れてたあなたのお父さんの顔をね。

そんな体験、今まででたった一度だけよ。あれがなんだったのかいまだにわからないし、なんとなく夫に悪い気がして、誰にも言わなかったけど」

宮崎恭子の習慣的な微笑みに微かな影が差したような気がした。奈々子はその微笑みを素直に受け入れることができた。

「父は宮崎恭子さんが好きだったんだと思います、真剣に」

「それはわかってる。もう昔の話よ」

奈々子は紅茶と話をしてくれたことに礼を言い、別れの挨拶をした。そして宮崎恭子の姿を目に焼き付けた。その白い肌を、整った顔立ちを、習慣的な微笑みとそれが作り出す皺を。宮崎恭子は奈々子に向け手をひらひらと振った。

「Time waits for no one」

「えっ?」

「家に帰って辞書を引きなさい、受験生」

奈々子は頭を下げ、宮崎恭子のマンションを後にした。紅茶の香りがまだ鼻に残っているような気がした。

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