【長編小説】父の手紙と夏休み 25

「でも、そんな風に生きている奈々子ちゃんのお父さんを見ていると心のどこかでうらやましいって気持ちが沸いてくるの。この人はなんて自由なんだって。それと同時にね、腹も立ってくるの。もう少し真面目に生きろって。

一番になるためにはやっぱり努力だって必要だし、嫌いな科目だって我慢してやってきた。嫉妬だってやっかみだってある。ずっとそういった厳しい競争の中で戦ってきたの。それなのにこの人はなに?みたいな。

まあ、奈々子ちゃんのお父さんだってお父さんなりに誠実に生きてきたんだと思うわよ。でも、あの自由奔放ぶりを見てると苛立ってくるの。まるで自分の生き方を否定されてる気分になるの。私のこれまでの努力ってなに?みたいな。

だって奈々子ちゃんのお父さん、いつも楽しそうなんだから。競争からおりちゃって、自分の好きなようにして、それってずるいって思った。私の生き方や考え方、価値観が間違ってるんじゃないかって、そんな風に思えてしまうの。それって私にしたらとても悲しいことだし、腹の立つことなのよ。

だから・・・、一時期、奈々子ちゃんのお父さんがすごい嫌いだったときがあるの、ごめんね」

そこまで話し終えると宮崎恭子はふっと息を吐いた。奈々子は握っていた拳の力を抜いた。手のひらに汗がにじんでいた。それをハーフパンツに押し付けてふき取った。お父さんは自分がそう思われていたことを自覚していたのだろうか、父の顔が頭に浮かんだ。宮崎恭子は紅茶を一口飲み、もう一度息を吐いた。

「でもね、勘違いしないでね、私は奈々子ちゃんのお父さんを好きだし、ある意味では尊敬してる。勉強させてもらった部分もあるのよ、実際。力が抜けたっていうか、そういう生き方もあるんだなって思えた。まあ、お父さんはずっと力抜きっぱなしみたいだけど」

宮崎恭子の顔にまた習慣的な微笑みが浮かんだ。その微笑みはやはり奈々子を緊張させた。宮崎恭子はしばらく黙ったあと、なにかを思い出したかのように話しはじめた

「こういう話をすると私のこと夢見がちな人だと思うかもしれないけどね、もしあのときって、そう思うことがあるの。これは奈々子ちゃんのお父さんだけの話じゃなくて、私が生きてきた中でしてきた多くの選択の話よ。きっと私だけじゃなくて他の人も、多かれ少なかれ、そういうこと考えるんだと思うけど、ねえ、そういうことない?あのときああしていたらって」

「よくわからないです」

宮崎恭子の習慣的な微笑みが一層深くなった。目元の皺はその習慣の長さを物語っているように思えた。

「私もね、もっとずっと若かった頃はそんな風には思わなかった。あのときああしていたらよかったなんてなんか可哀そうなお年寄りみたいじゃない?私は私の責任で自信をもって選択をしてきたと思ってたし、過去を振り返る時間なんてないほどほかに選択しなければいけないことがあったの。

でも、やっぱり年のせいなのかな。それとも今、時間に余裕ができてきたからなのかな。過去の出来事だったり、思い出だったり、そんなものをぼんやり考えることが増えてきた。あのときああしてていたら別の人生があったんだなって。

そうやっていくつもの人生を想像し、いくつもの人生を生きてみるっていうのもそんなに悪いものじゃないのよ。年をとる楽しみの一つかな。実際には一つだけの人生だけど、たくさんの人生を生きることができるのよ、人って。そういう想像力は大事なんだと思う。

まあ、過去に縛られて後悔ばかりの人生ってのはダメだし、私はそういう人は嫌いよ」

奈々子はカップを両手で持ち紅茶を啜った。紅茶はすっかり冷めて冷たくなっていた。宮崎恭子も同じようにカップに口をつけた。

「お父さんの話に戻るけどね、お父さんはきっと私の幻影を追ってたのね。そういうの好きじゃない?奈々子ちゃんのお父さん。現実の世界じゃなくてもっと別の世界に生きてるような、その別の世界で別の私を見てたのよ。

ねえ、『さびしんぼう』っていう映画知ってる?古い映画で、子供のころ見たの、兄が映画が好きでその影響でね。

高校生の男の子の話で、遠くでピアノを弾いてる女の子に恋をするの。カメラのファインダー越しに覗くショパンの別れの曲を弾く美しい女性。

まあ、どたばたといろいろあっておもしろいんだけど、それでね、映画の最後にその女の子がその男の子に言うの。

『あなたに好きになっていただいたのは、こっち側の顔でしょ』」

宮崎恭子はそう言って右頬を人差し指で二回軽く叩いた。

「『どうかこっちの顔だけ見ていて。反対側の顔は見ないでください』って。

その男の子のカメラのファインダーにはいつも女の子の右半分が映ってたの。男の子が女の子を覗ける場所からは女の子の右側しか映らない。本当の私は左側もあるの、それはあなたを幻滅させるかもしれない。

高校生の恋って、特に男の子なんて、女の子の幻想で溢れてるじゃない?私、男になったことないからうまく言えないけど。奈々子ちゃんのお父さんなんていつまでたっても思春期の男の子みたいなのよ。これ、悪口じゃないわよ。幻想や幻影を追いかけてる。きっとそれが社会に興味ないように見えるのね。そこがバカみたいで、でもちょっとうらやましくも思うの、現実的な女性としてはね。ねえ、紅茶、もう一杯飲まない?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?