【長編小説】父の手紙と夏休み 21

「怖いのね」

長い沈黙のあと小林杏子はぽつりとそう言った。その視線は奈々子を超えてどこでもないある空間に向けられていた。奈々子は今自分がどこにいるのかわからないような気がした。だれかの夢の中に迷い込んだような気分だった。小林杏子は長い溜息をついた。

「ここはね、いいところよ。静かだし、近くに自然もいっぱいあるし。でもね、ときどき怖くなるの。なんて言ったらいいんだろう、ここにいると自然がすぐそばにあることを受け入れなくてはいけないと思わされるの。

自然の中にいると確かに癒されるし穏やかな気持ちになる、でもね、それと同時に怖くなるの。自然ってそんなに優しいものじゃないでしょ。地震とか津波とか火山とか土砂崩れとか。それって人間にはどうすることもできなものでしょ、そういうのをニュースで見たりするとね、怖くなるの。

きっとね、私が怖いのはそういった外の世界にある自然じゃないのよ。私たち人間の中にも自然があって、それが私を怯えさせるの。

私はたくさんの人がいるところが苦手なの。そこには私の知らない人たちがいて、いえ、私の知っている人でも同じなのかもしれない、そこには私じゃない人たちがいて、その人たちの中に人間ではどうすることもできない自然が渦巻いていて、それがときして私を脅かすの、地震や津波や火山や土砂崩れみたいに。

私はそれを恐れながら生きているから、とても疲れてしまうの。私にはどうすることもできない自然が周りに満ちていて、それがふとした瞬間に爆発するのが怖いの。そうやってビクビクしながら生きていると私の感情が揺れ動くの。

私はいつまでも定まらない。私の内面と他の人たちの内面、それから外にある世界、その揺れ動く自然が怖いのね、私は。ちょっと考えすぎなのかもしれないけど」

小林杏子が微笑みとともに視線を外すと今まで小林杏子の視線によって作られていた空間が消え去り、ただの景色になった。奈々子がいくら探してもその空間はどこにも見つからず、小林杏子の言葉と同じように微かな余韻だけを残して消滅していた。

小林杏子はそういった空間や言葉を作り出す能力のようなものがあり、ただ在ったとしか言えないような気配、その空間や言葉が意味をなそうとしたときに漂う気配を人の心に残していく人なのだと奈々子はふと思った。

小林杏子はどこか虚ろな存在だった。確かに目の前にはいるのだけれどその在り方は実在ではなく気配だった。現実の肉体よりも気配の方が彼女をより表現していた。

ああ、この人は『直子』なんだ、少なくとも父と私にとっては。

奈々子は小林杏子の顔をぼんやりと眺めながらその気配に満たされた。

それから小林杏子はほとんど口をきかなかった。麦茶を静かに飲み、ときおりもの思いに耽っているようだった。奈々子は自分の分の麦茶を飲み終えると家に帰る旨を伝えた。小林杏子は「なにもお構いできず」と言って小さく笑った。

玄関まで見送りにきた小林杏子に奈々子は礼を言った。

「麦茶、ごちそうさまです」

「また来てくれると嬉しいかな。お父さんにもよろしくね」

「こんなこと聞くのは失礼かもしれないんですけど、小林杏子さんは今、幸せですか」

小林杏子は少しの間なにかを考え、そしてゆっくりと言葉を吐きだした。

「そうね。きっとそうなのね。あなたにも会えたし」

「きっと父は小林杏子さんと出会って幸せだったんだと思います。私が言ってもあんまり伝わらないかもしれないけど」

「どうなんだろうね」

「でも、私、小林杏子さんが、なんて言ったらいいんだろう、今日会った小林杏子さんみたいな人でよかったです。あれ?なんか変かな」

「ううん、ありがとう」

小林杏子は小さく手を振った。奈々子も同じように手を振った。

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