【長編小説】父の手紙と夏休み 最終回

部屋に戻った奈々子はベッドに横になった。真っ白な天上をぼんやり眺めながら母の話によって齎された感情を言葉に置き換えていく。

沸きあがり、揺れ動く感情は奈々子の中にあるものなのに奈々子がどうすることのできないもののように思えた。自分の中の自分ではないもの、自分を支配し、つき動かすもの。母の言葉の一つ一つは奈々子の中を流動する感情に刺激を与え、大きなうねりを作り出した。

偶然母のお腹に現れた奈々子という存在、それでも奈々子にとって父と母は今いる父と母でなければならなかった。その父は〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉という2人の女性を愛していた。その二人の女性にもそれぞれの物語があった。母にも自分なりの物語があった。その四者の物語は奈々子にとっては必然だった。それらがもし起こらなければ奈々子はここに存在していなかった。

奈々子は自分が今ここに在るということが不思議に思えた。自分が今ここに在るということは父や母や〈小林杏子〉や〈宮崎恭子〉のそれぞれの選択や決断の結果だった。それらは全て奈々子の存在とは無関係に行われたこと、偶然にもたらされたことだった。

自分が今ここに在るということは偶然の産物である、それでもこの考えに奈々子は虚しさを感じなかった。今自分が考えていること、抱いている感情、それらは全く空虚なものではなく、父や母や〈小林杏子〉や〈宮崎恭子〉の中にも在ったものだと思えた。自分も同じ道を歩いているのだと思えると気持ちが強くなった。

「意味のある偶然」

奈々子は父の手紙の一節を思い出した。父に早く会いたかった。

朝、奈々子が起きると父は既に帰っていた。遅い朝食を摂る奈々子に母は「ご飯終わったらお父さんに顔見せてきなさい」と言った。トーストを齧りながら奈々子は父の顔をぼんやりと思い浮かべた。

朝食を済ませた奈々子は自分の部屋から『ノルウェイの森』を持ち出し、父の部屋へ向かった。ドアを開けると父のにおいがした。父は机に向かって静かに本を読んでいた。奈々子が声をかけると父はゆっくりと視線を奈々子に向けた。

「元気だったか?」

「うん」

父は本を閉じて机の上に置き、右手の人差し指で眼鏡をあげた。

「お父さん、今日会社は?」

「今日は振替休日だよ。土日も働いたからね」

父は奈々子の姿を嬉しそうに眺めていた。奈々子はその視線になんとなく居心地の悪さを感じた。

「勉強はどうだ?」

「まあまあ」

窓から夏の日差しが差し込んでいた。今日も暑そうだな、奈々子はそう思いながらゆっくりと父に近づいた。父は黙って奈々子を眺めている。

「はい、これ借りてた」

奈々子は『ノルウェイの森』を父の机の上に置いた。父はそれをはじめてみるもののようにまじまじと眺めていた。

「勝手に借りてごめん」

「いや、別にかまわないよ」

父は『ノルウェイの森』を手に取り、パラパラとページを捲りはじめた。その顔はなつかしさに溢れていた。

「おもしろかったよ」

奈々子は囁くような声で父に言った。

「奈々子はこれを読んでどう思った?」

父は『ノルウェイの森』に視線を向けたまま奈々子に聞く。

「うん、なんていうか少しさみしい気がする。いろんな人がいろんなことを考えて、でもそれがうまくいくわけじゃなくて、みんな自分の思い通りにならなくて、それで傷ついて、でもやっぱり生きていくのも悪くないかなっていう気持ちにさせてくれる。いろいろあって失ってしまうものもあるけど、でもそれってみんな同じなんだって。そういうのって繰り返されるんだって思った」

父は『ノルウェイの森』から視線を離し、奈々子を見上げた。その顔には驚きの表情が浮かんでいた。奈々子はその視線を真っ直ぐに受け止めた。父の顔に自分が映しだされているような気がした。

「失われた時間や感情に対する憧れは、ある程度年をとって、それなりの経験をした人ならだれでもあることなんだと思う」

父はぽつりとそう言った。奈々子は黙って頷いた。

「人にとって時間は流れるものだし、その流れの中で感情や気分も常に変化する。常に変化し、その瞬間瞬間で消えたり現れたりする感情や気分は信用できないものみたいに思えるけど、お父さんにはそれが一番信じられるもののような気がするんだよ」

父は同意を求めるように奈々子に向かって小さく頷いた。

「お父さんは自分の認識能力を信じていない。目で見えるものとか、耳に聞こえるものとか、鼻から伝わるにおいとか、肌に触れる感触とか。そういったものはちょっとしたことで狂ってしまうんだよ、人って。そんな不確実な認識能力より自分の心の中に浮かぶ感情や気分の方がお父さんには信用できるもののように思えるんだ」

奈々子は父が言わんとしてることがなんとなく理解できた。父は右手で眼鏡をあげた。

「お父さんにはこの世界があまりにも複雑で理解することができない。だからお父さんはこの世界は全て偶然だと思うようにしてる。いいかい、これはね、世の中の真理じゃないんだよ、お父さんの倫理なんだ。倫理ってわかるかい?」

奈々子は黙って頷いた。

「倫理。世界は偶然である。そんな偶然に支配されている世界の中でお父さんはこう生きていこうと思ってるんだ。訪れる偶然、その中にはお父さんの意思や感情ももちろん含まれる、わかるかな?そんな偶然に責任を持ち、その責任の中から生まれる愛情とともに生きること、それがお父さんの生き方だし、お父さんにはそういう生き方しかできないんだ」

父はそう言うとにっこり笑った。奈々子はその笑顔に対して真っ直ぐに笑い返した。

夏の日差しはゆっくりとその強度を増していく。影が小さくなり光が伸びていく。奈々子は「勉強してくる」と父に告げ、部屋をあとにした。ドアを閉めるとき父が『ノルウェイの森』を開くのが視界に入った。

奈々子は机に向かい歴史の参考書を開いた。平安時代の政変の名前を憶え、法律や文化を頭に収めた。そこに書かれている文字を記憶するのではなく、そこ生きていた人々の生活や考えを想像しながら。

カレンダーを見ると夏休みはあと3日だった。また学校がはじまり、先生の話を聞き、友達とおしゃべりをし、そして受験勉強のラストスパートをかける。そして来年からは大学生。奈々子は大学に入った自分を想像した。そこで自分がどんな生き方をするのか、なにを学ぶのか。想像の中の自分が明確な像をもって頭の中に浮かび上がった。

両手で頬を叩き、気合を入れ直す。歴史の参考書をノートにまとめながら奈々子は考える。父が自分の物語を書いたように、〈小林杏子〉や〈宮崎恭子〉の物語を書いたように、父と母の物語を書こう。そして自分自身の物語を。資料集の紫式部がにっこり笑っていた。

-(了)-

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