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#旅行
駿河と相模の国境「足柄峠」と金太郎【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
神奈川県と静岡県の県境「足柄峠」付近一帯に残る“金太郎伝説”を紹介する。
日本の東西を繋ぐ場所
「足柄山」という山はない。
古くから親しまれているこの呼称は、特定の峰を示すものではなく、神奈川県と静岡県の境にあたる「足柄峠」付近一帯の山地を指している。
東海道随一の景勝地「薩埵峠」と山岡鉄舟【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
現在の静岡県静岡市清水区由比に位置する「薩埵峠」の歴史を振り返りつつ、その東麓にある「望嶽亭藤屋」に幕末から語り継がれる伝承を紹介する。
万葉集にも詠まれた難所
駿河湾にせりだした急峻な断崖絶壁は、古くから人々の往来を阻んできた。「薩埵山」の古名は「磐城
奥武蔵「顔振峠」と渋沢平九郎【山と景色と歴史の話】
幕末の戊辰戦争のさなか、現在の埼玉県入間郡越生町黒山で、官軍に追いつめられた1人の賊軍兵士が自決する。
その首は越生の高札場に晒され、胴は黒山の人たちの手で全洞院に葬られた。村人たちはその壮絶な最期を讃え「脱走の勇士」(だっそ様)と崇めたが、やがてこの兵士が渋沢栄一の妻・ちよの弟である平九郎と判明する。
激動の幕末に幕臣・渋沢栄一の見立養子(相続人)となったことで、数奇な運命を辿ることになった男
秩父長瀞「宝登山」と渋沢栄一【山と景色と歴史の話】
埼玉県秩父地方の「宝登山」「武甲山」「三峰山」は、それぞれ「寶登山神社」「秩父神社」「三峯神社」を擁し、いにしえより〝神の山〟として崇められてきた。かつて渋沢栄一が「長瀞は天下の勝地・寶登山は千古の霊場」と讃えた、関東屈指の観光地・長瀞エリアの「宝登山」と「長瀞」の歴史を振り返る。
千古の霊場・宝登山
秩父山地には珍しい独立峰の「宝登山」は、東麓に寶登山神社、山頂には奥宮が鎮座し、古くから信仰の
秩父のシンボル「武甲山」と渋沢栄一【山と景色と歴史の話】
埼玉県を横断する荒川の上流部、秩父市と隣接する秩父郡4町(横瀬町・皆野町・長瀞町・小鹿野町)を合わせた地域を「秩父地方」と呼ぶ。
「秩父」の名は『続日本紀』の和銅元年(708)正月乙巳の条に武蔵国の郡名として載るのが初見だが、「ちちぶ」の語源には諸説あり、武蔵国成立以前に置かれた知々夫国造に由来するとも、幾千もの山がそびえ立つので「千々峰」(知々夫)と呼ばれるようになったともいわれている。
秩
相模湯河原「土肥椙山」と源頼朝【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
神奈川県の西端・湯河原周辺に残る“源頼朝伝説”を紹介する。
「相模国」の誕生未開の地とみられていた東国が、ヤマト王権の支配下に組み込まれたのは5世紀頃だといわれている。
当時の神奈川県域は、県央部の相武国、県西部の師長国、県東部の武
奥多摩の山々と畠山重忠【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
秩父から奥武蔵、そして奥多摩にかけての山々を歩くと、鎌倉時代初期の武将・畠山重忠にまつわる伝説によく出会う。
今回は奥多摩を中心に“重忠伝説”を紹介する。
奥多摩の“奥”は『奥の細道』の“奥”森林美と渓谷美であふれる秩父多摩甲斐国
相模小田原「曽我山」と曾我兄弟【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
鎌倉時代初期、実父の仇討ちの果てに若くして散った曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、神奈川県西部や静岡県東部・伊豆地方における“悲劇の英雄”といえる。
今回は曾我兄弟にまつわる史跡が連なる、神奈川小田原市の「曽我山」を紹介したい。
「曽我」という地名の由来
甲斐大月「岩殿山」と小山田信茂【山と景色と歴史の話】
いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
群雄割拠の戦国時代、自領(領土・領民)を守るため、弱者が強者に従属を申し入れることは珍しいことではなかった。
甲斐・武田氏滅亡直前に織田方への従属を決断し、“不忠”の汚名を着せられた小山田信茂。
近年、信茂の見直しと再評価が進んでい