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#877 「固有派・折衷派・人間派」と「抒情詩・叙事詩・ドラマ」

それでは……本日から、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。あらためて、逍遥の「小説三派」から振り返ってみましょうか……

逍遥は「小説三派」で、小説を固有派・折衷派・人間派に分類します。

固有派とは、物語を作るに事を主として人を客とし、事柄を先にして人物を後にする者也。(#780参照)

折衷派とは、人を主として事を客とし、事を先にして人を後にする者也。(#782参照)

さて別に第三派を置きて之[コレ]を人間派と呼ぶべし。即ち人を因として事を縁とする派なり。(#783参照)

そして、この小説の三派を、詩と絡めます。

西詩に三派あり、抒情詩と叙事詩とドラマとなり。……第一派(即ち物語派)は最[イト]広き意義にていふ叙事詩の形にて、第三派(即ち人間派)は最[イト]狭き意義にていふドラマの結構なり。而[シカ]して第二派(即ち人情派)は其[ソノ]事を先とすること甚だしければ叙事詩となり、其人を主とすること重ければドラマの形とならん。(#783参照)

「物語派」は「固有派」のことで、「人情派」は「折衷派」のことです。

そして、こんな風に言います。

人間派の写す所は、其形は小なれど其心は大なり、其相は一なれども其実は萬なり、其表は特殊にして其裏は普通、其色は偏にして其理は圓なり。夫の人情派の、其形も其心も其相も其実も其表も其裏も其色も其理も大かた特殊なるとは同じからず。又夫の物語派の偏に普通なるとも異なれり。(#785参照)

ここで、「人間派」に重きを置いていることがわかります。

そして、
固有派は肢体、折衷派は五感、人間派は魂のごとし
固有派は文人画、折衷派は密画、人間派は油画のごとし
固有派は常識(広くて浅い)、折衷派は諸科の理学(狭くて深い)、人間派は哲学(広くて深い)のごとし
と例えたあと、こんなことを言います。

併[シカ]しながら此等の比喩は其質を評せるのみ、必しも三派の優劣をいへるにあらず。(#786参照)

それぞれの性質を評しただけで、優劣を言ったわけではない、と……

で、このあと、逍遥は「余計」と思われる文章を差し挟みます。

然るを若[モ]し比喩を進めて、哲学は科学の親なるゆゑに人間派は毎[ツネ]に人情派に優れり、常識は科学の材たるに過ぎねば物語派は最も下なりといはゞ、是恐らく非事[ヒガゴト]ならん。猶風韻ある日本画の粗なるを見て密なる油画に劣れりといはんが如く、一向に形に泥[ナヅ]める沙汰なり。哲学の名は尊しといへども其の説まことに高からずば、まことに深き科学に及ばざること遠し。ダーヰン、ハクスレーの学説をもて謬妄なる独断哲理に劣れりといふは狂愚なり。さて又物語派を常識に比したるも、只其形の上をいへるのみ。其表に現はるゝ所のいと広くして淺きをいへるのみ。寸鉄よく人を殺す、俚諺に見えたる常識の大独断教に優ることあるを思へば、普通の常識ばかり真理に近きものはあらざるべし。(#786参照)

「哲学は科学の親であるが、その説まことに高からず、常識は科学の材であるが、普通の常識ばかり真理に近きものはなし」、これぐらいにしておけば、のちに鷗外に揚げ足をとられずに済んだはずです。

そして……

詩を評するに抒情、叙事、ドラマの三質を別つ如く、小説にも或別を立つることの甚だ用あるを感ずればなり。たとへばドラマとしては上乗ならざるも叙事詩としては上乗なることのあるが如く、叙事詩としては傑作ならざるも抒情歌として傑作なることのあるが如く、人間派人情派の作としては甚だ妙ならずと見ゆる作も之を物語派の作とすれば、甚だ妙なることのあるべければなり。(#789参照)

これが「小説三派」のおおまかな流れなのですが……

この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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