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#786 固有派・折衷派・人間派に優劣なし!

それでは今日も坪内逍遥の『小説三派』を読んでいきたいと思います。

逍遥は、小説を固有派・折衷派・人間派に分けます。そして、

固有派は肢体、折衷派は五感、人間派は魂のごとし
固有派は文人画、折衷派は密画、人間派は油画のごとし
固有派は常識、折衷派は諸科の理学、人間派は哲学のごとし
と例えます。
常識は広くて浅く、科学は狭くて深く、哲学は広くて深い、と……

併[シカ]しながら此等の比喩は其質を評せるのみ、必しも三派の優劣をいへるにあらず。然るを若[モ]し比喩を進めて、哲学は科学の親なるゆゑに人間派は毎[ツネ]に人情派に優れり、常識は科学の材たるに過ぎねば物語派は最も下なりといはゞ、是恐らく非事[ヒガゴト]ならん。猶風韻ある日本画の粗なるを見て密なる油画に劣れりといはんが如く、一向に形に泥[ナヅ]める沙汰なり。哲学の名は尊しといへども其の説まことに高からずば、まことに深き科学に及ばざること遠し。ダーヰン、ハクスレーの学説をもて謬妄なる独断哲理に劣れりといふは狂愚なり。さて又物語派を常識に比したるも、只其形の上をいへるのみ。其表に現はるゝ所のいと広くして淺きをいへるのみ。寸鉄よく人を殺す、俚諺に見えたる常識の大独断教に優ることあるを思へば、普通の常識ばかり真理に近きものはあらざるべし。常識豈[アニ]卑[イヤ]しかるべき。されど世の物語派即ち事を主として物語を作る人々の中には、間々事を重んずるの余りいつしか事の奴[ヤッコ]となりて、我また人物を奴とし奇[ク]しき事を語らんとて、有るまじき人物を作る事あり。かゝるは常識界を離れて詭弁界に入り、若くは妄言界に踏込めるものともいふべし。文化文政の名家に此[コノ]失多し。

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)を弁護し「ダーウィンの番犬」と呼ばれたのがトマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895)です。

また案ずるに、我國の純文学の幕の内ともいふべき文学並[ナラビ]に浄瑠璃の多数も、大かたは物語派也。即ち事を主として人物を客とせり。演劇の臺帳すら諸派の雑種にて中には純然たる物語派なるも多し。今の批評家往々我[ワガ]狂言作者を責めて、彼等学淺くして識足らず何ぞ共にドラマを語るに足るべきと叱[シッ]すれど、是思ふに的[マト]を誤りたる沙汰ならん。たとひ彼等狂言作者をして大なる学と高き識とをもたしむるも、今の批評家が望める如き西洋風のドラマをば争[イカ]で得[エ]作らん。何となれば彼の主とする所と此[コレ]の主とする所と全く違へばなり。批評家はドラマを得んと欲し、作者は叙事詩(エポス)を作らんとす。作者批評家に迫られて進退維[コ]れ谷[キワ]まり、鋭意奮発して「一口劔」の主人公のやうになりて、千錬々萬鍜々吁將莫邪[カンショウバクヤ]を作り得たりとするもまた益なし。

逍遥が『小説三派』を連載開始したのは1890(明治23)年12月のことですが、これより4ヶ月前の8月に発表されたのが幸田露伴の『一口剣[イッコウケン]』です。いずれ「紅露時代」に突入したときに読むことになると思われますので、ここでは深入りするのをやめておきましょうw

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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