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#789 我あるを知らざるは死灰なり

それでは今日も坪内逍遥の『小説三派』を読んでいきたいと思います。

斯く長々しく弁じたる、頗る弁を好むに似たれど、吾人は唯標準を別にして諸家を評せんと思へばこそ、止むを得で此断[コトワリ]をいひつるなれ。かゝる差別の我文壇に現在せるを信ずればなり。西洋の差別を適用せるにては無し。詩を評するに抒情、叙事、ドラマの三質を別つ如く、小説にも或別を立つることの甚だ用あるを感ずればなり。たとへばドラマとしては上乗ならざるも叙事詩としては上乗なることのあるが如く、叙事詩としては傑作ならざるも抒情歌として傑作なることのあるが如く、人間派人情派の作としては甚だ妙ならずと見ゆる作も之を物語派の作とすれば、甚だ妙なることのあるべければなり。此別を非なりとする人あらん乎[カ]、其人は事物の平等を見て差別を見ざる人なり、世に絶対あるを知りて相対あるを知らざる人なり、一あるを知りて萬億あるを知らざる人なり、宇宙あるを知りて國家あるを知らざる人なり、國家あるを知りて我あるを知らざる人なり、我あるを知らざるは死せるなり死灰なり。
此故に評者は「勝鬨」と「桂姫」とをもて物語派の作とし、「此ぬし」と「教師三昧」とをもて人情派の作とし、下に其然る所以を弁ぜん。敢て此四者の優劣を判ぜんとにはあらず、其質の相異なれる所以を分析せんとす。是もまた評判の一種なるべし。但しかの三派の別は素[モト]より評者のほしいまゝにせる差別なり。幸ひに十中一の正しきを得ば、好弁の譏[ソシリ]をまぬがるゝに庶幾[チカ]からん。

というところで、『小説三派』が終わります!

で、なぜこの『小説三派』が没理想論争に絡むのかというと、これより9ヶ月後に鷗外が「逍遥子の新作十二番中既発四番合評、梅花詞集及梓神子」を『しがらみ草紙』に発表し批判するのですが、その際、逍遥が分類した小説の三派を、ハルトマンの哲学にあてはめて、「固有派」を「類想」、「折衷派」を「個想」、「人間派」を「小天地想」といいかえるのです。

唯其理想は抽象[アプストラクト]によりて生じ、模型に従ひてあらはるゝ古理想家の類想にあらずして、結象[コンクレエト]して生じ、無意識の辺より躍り出づる個想なり、小天地想なり。大詩人の神の如く、聖人の如く、至人の如くおもはるゝは理想なきがためならず、その理想の個想なるためなり、小天地想なるためなり。(#675参照)
シエクスピイヤは大詩人なり。その作の造化に似たるは、曲中の人物一々無意識界より生れいでゝ、おの/\その個想を具[ソナ]へたればなり。その作の自然に似たるは、作者の才、様に依りて胡盧[コロ]を画く世の類想家に立ち超えたりければなり。早稲田文学はこれに縁よりて、シエクスピイヤを没理想なりとす。われは其意を取りて其言を取らず。没理想は没理想にあらずして、没類想なればなり。(#677参照)

ここですよ!一体、「小天地想」ってなんだよって思っていたのですが、この『小説三派』がきっかけになってるんですよね!

で、次に、取り組むのは……

予嘗てドラマの本体を底知らぬ湖に喩へしことありしが、近ごろダウデン氏の論文を見れば、シェークスピヤとゲーテを大洋に比したるがあり。趣きはやゝ異なれども同じ理に帰着すべしと信ぜらる(#663参照)

という箇所です。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!」

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