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#663 シェークスピアの作品は万般の理想を容れて余りある!

それでは今日も坪内逍遥の「シェークスピア脚本評註緒言」を読んでいきたいと思います。

祇園精舎の鐘の声、浮屠氏[フトシ]は聞きて寂滅為楽の響きなりといへれど、待宵には情人が何と聞くらん。沙羅双樹の花の色、厭世の目には諸行無常の形とも見ゆらんが、愁ひを知らぬ乙女は、如何さまに挑むらん。

「浮屠」は「ブッダ」の音訳なので、「浮屠氏」とは「釈迦」のことです。

要するに、造化の本意は人未だ之れを得知らず、唯、己に愁ひの心ありて秋の哀れを知り、前に其の心楽しくして春の花鳥を楽しと見るのみ。造化の本体は無心なるべし。さてシェークスピヤの傑作は、頗るこの造化に似たり。上は審美の見識に富みたる学者より、下は一知半解の者までも、彼の作をもてはやすは、一つは故人が激賞したるを伝へきゝて、雷同付加するにも因るならめど、一つは、彼の作、度量甚だ広くして、能く衆嗜好を容るゝこと、猶は自然の風光の万人を娯ましむるが如きに原くならん。バイロン、スヰフトなどの作の、或人に喜ばれて、他の人に嫌はるゝとは、大いなる相違なり。否、たゞ衆嗜好を容るゝばかりかは。彼れが傑作は殆ど万般の理想をも容れて余りあるに似たり。是れ最も造化の本性に似たる所なり。

造化の本体は無心なるべし!シェークスピアの作品は万般の理想を容れて余りある!

『当世書生気質』にはバイロンやスウィフトに関連する話題が出て来ますね。ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)に関しては#148とか、ジョナサン・スウィフト(1667-1745)に関しては#258とか読んでみて下さい。

彼れが作に関しての先輩の評論、解釈、今は百を以て算[カゾ]ふべし、而も其の見解はおの/\多少背馳し、甚だしきに至りては(ハムレットの人物論の如き)枘鑿[ゼイサク]相容れざるものもあり。蓋し造化の捕捉して解釈しがたきが如く、彼れが作の変幻窮りなくして一定の形なく、思ひ倣し次第にて、黒白紫黄、いかさまにも解せらるゝが故なるべし。此の故にジョンスン、コールリッヂ以来、シェークスピヤの作を評して自然の二字を用ひざりし者は稀れなり。

イギリスの文学者であるサミュエル・ジョンソン(1709-1784)は、シェークスピア研究で名高く、1765年にシェイクスピアの戯曲集を刊行します。

イギリスの詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1772-1834)は、1811年から翌年にかけてシェークスピアについての講演を計17回行います。

予嘗てドラマの本体を底知らぬ湖に喩へしことありしが、近ごろダウデン氏の論文を見れば、シェークスピヤとゲーテを大洋に比したるがあり。趣きはやゝ異なれども同じ理に帰着すべしと信ぜらる。

アイルランドの批評家であるエドワード・ダウデン(1845-1913)は『シェークスピア ー その精神と芸術』を1875年に出版します。このダウデンのシェークスピア観が、逍遥のシェークスピア解釈に強い影響を与えたといわれています。

所詮、シェークスピヤは、仮令カーライルが評せし如く、一意「地球座」の劇場へ看者を牽かんとて筆を執りきとするも、其の看者を牽くの手段、自然[オノズカラ]詩人の本領に合ひて、俗文士が阿世の手段とは異なりたりしならん。或ひは彼れは、衆人心娯しません為には、直ちに人間の本相を描破するに如かずと冥識し、必ずしも一時に別びず、天稟の詩眼によく人間を観破し、不偏公平の筆をもて、自然の有りのまゝを描きたりしならんか。

トーマス・カーライル(1795-1881)は、1841年に出版された『英雄と英雄崇拝』で、「シェークスピアは、これまでに現れた全詩人の王であり、人類の歴史に文学という手段で、自らの記録を残した最大の知識人である」と言っています。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!


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