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#785 固有派は肢体、折衷派は五感、人間派は魂のごとし!

それでは今日も坪内逍遥の『小説三派』を読んでいきたいと思います。

逍遥は、人間派の描く「人と事」の因果の理法は、主観が客観を作るということだといいます。

上の如く解すれば「人間派」は人と事と相因縁せるを写すをもて足れりとせで、更に虚実幽明の相纏綿[アイテンメン]して離れざる趣を写すものなり。即ち人間の経緯を取りて因果を織做[オリナ]せるものといふべし。されば人間派の写す所は、其形は小なれど其心は大なり、其相は一なれども其実は萬なり、其表は特殊にして其裏は普通、其色は偏にして其理は圓なり。夫の人情派の、其形も其心も其相も其実も其表も其裏も其色も其理も大かた特殊なるとは同じからず。又夫の物語派の偏に普通なるとも異なれり。

この時点で、固有派・折衷派・人間派のなかで、逍遥は人間派に重きを置いていることがわかりますね。

案ずるに、物語派は俗に謂ふ因果説を体し、若[モシ]くは天命の説を奉じて普在せる事相を写すものから、其相の由来をば明にせずさるが上に、本来人物を主因とせざれば甲人に於ける天命も乙人に於ける天命も汎然漠然として一なるが如く、平等の理はあれど差別の実なし。死したる観念はあれど活きたる観念はなく、ゼネラリチーはあれどインヂヰ゛ヂュアリチは無し。此故に或は読者をして世に因果あることをば知らしむべきが、因果の関係をば知らする能[アタ]はじ。或は読者をして人間に理法あることを知らしめんが、其理法の人に因縁せる由をば知らしむる能はじ。先天的にものして後天的にものせざればなり。演繹的に筋を立てて、帰納的に筋を立てざればなり。

ちなみに逍遥は「我れにあらずして汝にあり」で、『早稲田文学』の巻末に「時文評論」の欄を設けた企図についてこんなことを言っています。

吾人の本願は、大帰納の素材を供せんとするにあり、小理想をもて演釈せる空漠たる理論を語らんとにはあらず(#668参照)

評論と小説は、真逆の関係なのでしょうか……

茲[ココ]に件[クダン]の三派を物に喩へていはん。先づ人に配していへば、物語派は支体の如く、人情派は五感の如く、人間派は魂の如し。又之を画に配せば、物語派は文人画の梅の如く、人情派は一枝の梅の密画の如く、人間派は根幹枝花残りなく画ける油画にも似たらん。文人画の梅粗なれども梅の全体を見るべく、密画の梅花細なれど一斑に過ぎず、ひとり油画の梅は其全体を見ると同時に枝、葉、根、幹、花の相関係せる所以を見るべし。又之を學問に配せば、物語派は常識(コモンセンス)の如く、人情派は諸科の理学(天文、地質、植物、動物)の如く、人間派は哲学の如し。常識は広くして淺く、科学は狭くして深く、哲学は広くして深し。

なんでこの例えを三派の説明の一番最初に出してくれなかったんだよ!w

この例えを知ってから読んだ方が、内容がすんなり入ってきたのに!w

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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