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#782 固有派に対して折衷派とは?

それでは今日も坪内逍遥の『小説三派』を読んでいきたいと思います。

折衷派とは、人を主として事を客とし、事を先にして人を後にする者也。前の固有派と半[ナカバ]は似たれど半は異なり。人を主とするとは人の性情を活写するを主とする謂[イイ]にて、事を先にするは事に縁[ヨ]りて人の性情を写さんとすれば也。

逍遥は固有派を説明する際に……

事を主として人を客とし、事を先にして人を後にしたればなり。……それだにおしなべて小乗の心なりまして、其末流に及びては此の理やうやうおぼろげなれば、人心と事変との縁ますます遠くなり、動[ヤヤ]もすれば宿命説(フヘタリズム)の趣に似たるものあり。

といっています。

固有派
「主」→「事」
「客」→「人」
「先」→「事」
「後」→「人」
折衷派
「主」→「人」
「客」→「事」
「先」→「事」
「後」→「人」 

性情は形無きものなれば、有形の事変に縁らざれば為しがたき故也。具[ツブサ]にいへば或る特別の人物を作りて其人の栄枯転変に於ける心の有様を写すなり。前の固有派にては事主にして人物客たれば、人はおのづから事の附物[ツキモノ]となりて客観なり。しかるに此派にては人を主とするが故に、人物おのづから主観なり。換へていへば人物の哀歓悲喜を外よりのみは見で内よりも見るなり。英雄の心緒[シンショ]紊[ミダ]れて絲の如しと客観的に叙し去らで、時としては其の乱れたる様を写すこともあり。但し人物と事変との間に主客先後の関係こそはあれ、未だ因果の関係なければ人物必ずしも主観とはならず。蓋[ケダ]し此派の本意は或特別なる事変に於ける或特別なる性情の状態を写すにあれば、未だ必ずしも事変をもて其人に由来すとせざるなり。是別に人を因として事を縁とする派のある所以なり。

「主客」と「先後」、そして「因縁」がある、と……

新作十二番を評するに斯[カ]かる管々[クダクダ]しき弁何の要かあるといぶかる人もあらんが、評者は此弁の止みがたきを知る也。今の批評家中には、間々[ママ]第二派の眼をもて第一派を評し、若[モシ]くは第三派の眼をもて第一派を評し、徹頭徹尾[コトゴトク]取る所無しと抹殺する者あり。かゝるはホーマル、ワ゛ルジルを評するにソホークリズ、ユーリピヂズの眼をもてし、ミルトン、ダンテを評するにシェークスピヤの眼をもてするものに似て少しく理にたがへり。

「ホーマル」は古代ギリシャの詩人ホメロス(生没年不詳)のこと、「ワ゛ルジル」は古代ローマの詩人ウェルギリウス(前70-前19)のことです。「ソホークリズ」は古代ギリシャの詩人ソフォクレス(前496-前406)のことで、「ユーリピヂズ」は古代ギリシャの詩人エウリピデス(前480-前406)のことです。

げにや叙事詩(エポス)もドラマも其[ソノ]詩たるや一つなり。梅も桜も其花たるや一つなり。然れども花に種々の別あるは争ふ可[ベカ]らず。桜或は花の王なるべく、梅或は花の兄ならん。さりとて梅は梅桜は桜なり、桜をめづる眼をもて梅を評する人をば、色をも香をもよく知るものといふべきか。烏呼[ヲコ]の風流雄[ミヤビヲ]汝桜の外に花なしと信ぜば、何ぞ先づ桜の梅にまさるを説き、兼[カネ]ては梅を枯らすべき方[ハカリゴト]を講ぜざる。古[フリ]たる梅園に就きて其花の桜ならざるを笑ふ風流雄[ミヤビヲ]の名にも似ではしたなきかな。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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