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謎の男・平澤哲雄の生涯とその年譜

1. はじめに―本当に謎の男なのか?

 気が付けば今年も終わりである。本来であれば、私が研究しようとしている柳田国男鶴見俊輔吉本隆明などの論考を1年の成果としてここに発表するべきであるかもしれないが、正直に申し上げると、例のウイルスによる混乱、私自身の多忙、そして怠惰によって、これらの人物の調査はあまり進まなかった。数少ない今年進んだと思われる成果は、当時一発ネタのつもりで以下の記事に取り上げた謎の男・平澤哲雄のことである。哲雄は、国会図書館の管理している典拠データが検索できるWeb NDL Authoritiesで検索しても、名前だけしか載っておらず生没年も不明であった。

そのため最初は上記の記事で終わらせるつもりであったが、哲雄は現在でも著名な人物と広く交流していたため、彼の足跡を示す資料が意外と残されていることに気づいた。それらの資料を調べることで平澤に関していろいろなことが分かり、哲雄の生涯に関してもある程度の推測ができるようになった。詳しくは後述するが、哲雄は、現在では完全に忘れられた人物であるが、活動していた当時は度々新聞にも取り上げられており、それなりに注目されていたことが調べていた過程で分かった。本稿では、そんな哲雄の年譜を作成することで当時彼がいかなる人物として取り上げられていたかということを検討していきたい。

2. 平澤哲雄の生涯とその年譜

 今回の年譜に関しては、現時点で私が分かっている限りの情報で作成を行うことにする。さらに調査していろいろな情報を追加する余地はおおいにあると考えているが、まずは問題提起の意味も込めて未完成ということを承知でここに公開したい。今回公開した年譜がきっかけとなって哲雄や関連人物に関する検討が少しでも進むきっかけになれば幸いである。

以下が年譜に関する注意事項になる。

・年譜が煩雑になってしまうが、年譜の各項目の根拠となっている情報も記載した。

・数回引用する参照元に関しては、以下の略語で記載する。

『直』=『直現藝術論』平澤哲雄(下出書店, 1922年)
『断』=『断腸亭日乗』永井荷風(『荷風全集』第21巻(岩波書店, 1993 年)収録)
『西』=西田幾多郎の日記(『西田幾多郎全集』第18巻(岩波書店, 2005年)収録)
『朝』=『東京朝日新聞』(聞蔵Ⅱビジュアルで閲覧)
『読』=『読売新聞』(ヨミダス歴史館、パーソナルで閲覧)
『六』=『六合雑誌』
『南』=ブログ『南方熊楠のこと、あれこれ』「平沢哲雄という人物と、熊楠とのつながり」

・参照した情報から確定できなかった年代や事実に関しては、「?」を追加した。

<平澤哲雄の年譜>

1896 or 1897年 埼玉県菖蒲郡の平澤三郎家の長男として誕生

生年は『直』の記述より計算。この記事も参照。父の平澤三郎については、この記事を参照。三郎の家族に関しては、この記事を参照。

1913年 立教中学校を卒業。同期に帆足秀三郎、荻野定一郎。(『会員名簿』(昭和三年度)立教学院校友会より。この記事も参照。)

6月 電気工学を勉強するためにアメリカへ渡る。(渡米時満16歳)
留学したが、電気工学の勉強はせずに各地を放浪する。(『直』)

11月ごろ? 放浪中に芸術に関心を持ちシカゴのアートインステチュートに入学するが、ほとんど勉強しなかった。(「タゴールの印象と感想」『六』第426号、『直』)

同時にインド哲学にも関心を持つ。滞在中にポーランドのピアニスト・パデレフスキ―に会う。(「タゴールの印象と感想」『六』第426号、『直』、「直現藝術論を出すまで(三)」『読』1922年6月16日朝刊)

1916 年 日本へ帰国?(『直』)(注1)

早稲田大学政治科の高等予科に進学?(『直』)(注2)

6月 6/11 東大で行われた来日したタゴールの講演会を聴く。平澤はタゴールの来日に深く関わった政治家・三土忠造の親戚である。(注3)(「タゴールの印象と感想」『六合』第426号)

西田天香、中桐確太郎とともにタゴールと面会。(『直』、「タゴールの印象と感想」『六合』第426号。同じ号に、西田、中桐とともに投稿している。)

この後、西田天香と交流が続き京都を度々訪問(『直』)

9月 日本美術院再興第3回展覧会を見学(「美術院第三回展覧会批評」『六』第429号)(注4)

文部省美術展覧会、二科会展覧会を見学(『六』第430号)

1917年 2月 タゴール再来日時に通訳を務める。(『読』1917年2月9日)

夏 2ヶ月間ポール・リシャールと越後の山間に滞在(『直』)

1918年 9/11   西田幾多郎を訪問。西田の日記で「狂のような人」と評される。(『西』)(この記事も参照)

1919年 早稲田大学政治学科を卒業(『早稲田大学校友会会員名簿』(早稲田大学校友会, 1925年)この記事も参照)三井物産に就職?(『断』)

1920年 8/20 田辺に南方熊楠を訪問するも面会できず。(『南』)

1921年 4月 ヘンリー・ブイ追悼会に出席。追懐談を述べる。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』40巻 P549 No.DK400173k-0001(2020年12月24日閲覧))

1922年 5月 5/15 南方植物研究所の寄付金集めに上京した南方に面会。平野威馬雄、親戚の三土忠造を南方に紹介。(『南』)

6月 『直現藝術論』を下出書店より出版(奥付)
6/14~6/16  『読売新聞』に「直現藝術論を出すまで」が連載される。
吉村せい子のことにも言及されており、このころには吉村と結婚している。(「直現藝術論を出すまで(三)『読』1922年6月16日朝刊」

6/26 この日の『東京朝日新聞』朝刊に『直現藝術論』の広告が出る。(この記事も参照。)

10月 10/3 この日の『読売新聞』朝刊に平澤哲雄が女性に人気があることを紹介する記事が載る。(『読』1922年10月3日朝刊)
    
10/5 10/3の記事に対する苦情が載る。(『新聞集成大正編年史』大正11年版下(明治大正昭和新聞研究会, 1986年)収録『読』1922年10月5日)

10/29 日本文学創刊記念講演会が日本大学で行われ「新舞踊美術論」を講演(『朝』1922年10月28日朝刊)

時期不明 巖谷小波主催の木曜会で永井荷風に知り合う。(『断』)

1923年 2月 2/18 「直現藝術概論」を京橋会館で講演(『読』1923年2月13日朝刊)

3月 3/24? 大山郁夫の出版記念会で有島武郎に会う。有島とは以前から知り合いであった。(「死の暗影を訪ねて―有島氏を想ふ」『読』1923年7月10日朝刊、日付は『有島武郎全集』第14巻(筑摩書房, 1985年)収録の「二四三六 三月二四日 唐澤秀子宛書簡」より推定。有島との交流に関しては、この記事も参照。)

5月 5/14 この日の『読売新聞』で新著『藝術潮流の転位』が近日中に刊行と予告される。(『読』1923年5月14日朝刊)実際に刊行されたかどうかは不明。

7月 『生とその影:仏蘭西箴言集』平澤哲雄訳・平野威馬雄編(紅玉堂書店, 1923年)を出版(奥付)
このころ逗子・金沢へ旅行(「死の暗影を訪ねて―有島氏を想ふ」『読』1923年7月10日朝刊)

9月 9/11 関東大震災で焼け出され永井荷風宅に居候(『断』)
10月 10/25 下総市川に引っ越す(『断』)

その後、南方の紹介で大阪毎日新聞社長・本山彦一に会い、ヨーロッパに派遣されることになる。(岩田準一宛て書簡(昭和6年8月20日南方記)『南方熊楠全集9』(平凡社, 1971年)より)渡欧理由に関しては、この記事も参照。)

1924年 2月 2/17 渡欧送別講演会が上野自治会館で開催 出席者は団伊能、北れい吉、吉江孤雁、片上伸、紀平正美らが出席(『読』1924年2月12日朝刊)同日、午後上野精養軒で送別会。(『読』1924年2月13日朝刊)(この講演会については、この記事も参照)

2/26 西田幾多郎を訪問(『西』)

3月 3/3 吉村せい子とともにヨーロッパへ出発(『読』1924年3月2日朝刊)スイス・ジュネーブのポール・リシャール宅へ滞在(『読』1924年2月22日朝刊)

スイス滞在中に、ロマン・ロランに会う。(「世界めぐりの旅みやげ話 世界女性の高き誇り偉大な三夫人よ」『読』1925年5月16日朝刊)

国際連盟の事務所を訪問する。(『新聞集成大正編年史』大正13年度版中(明治大正昭和新聞研究会, 1986年)収録『東京日日新聞』1924年8月21日)(注5)

6月ごろ フランス・パリに滞在。平澤と吉村が、今まで日本人がほとんど受け入れられてこなかったパリの文藝社交界で注目され、受け入れられていることが報道される。平澤は、イタリア、フランスの出版社から美学書を出版する契約をする、吉村は、自身の主宰する「婦人画報」にポール・ヴァレリーなどに文章を書いてもらうよう依頼をした。(「最近パリに於ける日本文藝家の消息」『読』1924年7月21日朝刊)
アンドレ・ジッドに会う。『狭き門』を翻訳した山内義雄を紹介(「アンドレ・ジードの顔?」『読』1931年11月19日朝刊)

11月ごろ イタリア・ヴェネチアに滞在(『読』1924年11月20日朝刊)
エジプト、インドに滞在(「世界めぐりの旅みやげ話 世界女性の高き誇り偉大な三夫人よ」『読』1925年5月16日朝刊)

12月 12/19 帰国。本所縁町二の二十二に住む。(『読』1924年12月19日朝刊)

1925年 5月ごろ 下谷区上野櫻木町七春性院内へ転居(『読』1925年5月6日)

9/21 腸チフスにより鎌倉で死去(『読』1925年9月27日朝刊。この記事も参照。)
    
9/29 埼玉菖蒲郡町長龍寺で葬儀(『読』1925年9月27日朝刊、『朝』1925
年9月27日朝刊にも広告)

10/11 追悼会が本郷赤門前喜福寺で開かれる。(『読』1925年9月29日朝
刊、『朝』1925年9月27日朝刊にも広告)追悼会案内は南方熊楠顕彰館に
保存されている。(『南』)

3.  意外と注目されていた平澤哲雄

 以上が簡単ながら哲雄の年譜である。年譜が分かり辛いかもしれないので、ここで改めて整理するという意味で『直現藝術論』、「タゴールの印象と感想」(『六合雑誌』第426号)、上記の年譜に従いながら、哲雄の略歴を改めて述べていきたい。

 哲雄は、後に埼玉県の高額納税者になり地元の名士とも言える平澤三郎のもとに長男として生まれた。長男であることから哲雄は大切に育てられたようである。小学校を卒業した後に、立教中学校に入学することになるが、哲雄はここでキリスト教の影響を受けたと考えられる。哲雄は宗教、哲学、芸術に大きな関心を持っていたが、その基礎はこの時代につくられたのだろう。この時代の哲雄は人生に疑問を持った当時よく見られた「煩悶青年」の一人であった。(注6)

 哲雄の煩悶は、ついに日本で留まることなく哲雄をアメリカ留学へ導くことになる。中学卒業後に哲雄は電気工学を勉強するという理由で渡米したが、実際は電気工学を勉強せず宗教、芸術、哲学に興味を持ち各地を放浪していた。この放浪中にイタリア出身である老人に会い、これらに関して様々なことを学び、独学していたようだ。独学する過程で、自身の感覚を通して物事を直接理解しようとするインド哲学に大きな関心を持った。その後、シカゴのアートインステチュートに入学したが、ここにもなじめず外国人に囲まれ鬱屈として日々を送っていた。彼らは東洋のことを馬鹿にしていたが、哲雄はこのことを苦痛に感じていた。しかしながら、ある日、インドの詩人・タゴールがノーベル文学賞を取ったというニュースを聞き勇気づけられ、その思想にひきつけられる。学校になじめなかった哲雄は、ある日学校同級生になぐられてしまうが、ドイツ人の女性に助けられその女性と恋に落ちることになる。しかし、この恋は女性の突然の死によって終わってしまう。これ以外にも自分や家族の病気など様々な出来事が重なり、哲雄は日本への帰国を決意する。

 帰国後に早稲田大学に進学した。1916, 1917年のタゴール来日時には、タゴールと交流、特に1917年にはタゴールの通訳をつとめており関西方面に旅行している。卒業後は就職したが、芸術の世界に関わり続け様々な研究者、文学者と交流していた。その交流範囲は日本にとどまるものではなく、フランスの東洋哲学者・ポール・リシャールやその夫人・ミラにも及んだ。(注7)アメリカから帰国後も哲雄は引き続き東洋の哲学に関心を持っていたようである。関東大震災後はヨーロッパへ渡り、現地の文学者や思想家とも積極的に交流した。そんな哲雄の日本やヨーロッパでの消息は度々新聞でも報道されており、当時哲雄がそれなりに注目されていたことが分かる。しかし、哲雄はヨーロッパから帰国後まもなく腸チフスにかかり30年に至らない短い生涯を終えることになる。

 以上、哲雄の生涯を簡単に描写してみたが、哲雄は当時意外と注目されていたということが分かる。哲雄の動向は主に『読売新聞』の「よみうり抄」という欄に載っているが、この欄は主に文学や芸術関係者の動向が紹介されていた欄になる。たとえば、哲雄と同じ日に「よみうり抄」に載った人物は、武者小路実篤(1924年2月12日朝刊)、山田耕作(1924年2月22日朝刊)、芥川龍之介(1925年9月27日朝刊)などである。ここに取り上げた三者は現在でも有名であるが、哲雄の動向が彼らと同じ欄に掲載されていたということが現在ではとても意外に思われる。ここから哲雄は文学や芸術に関心のある人々の間では当時それなりに知られていたのではないかということが推測できる。しかしながら、若くして亡くなったこともあって哲雄は急速に忘れ去られてしまった。

4. なぜ忘れ去られたのか?―平澤哲雄と宮沢賢治

 私が忘れられた人物を取り上げられる際に、重要であると考えるのはその人物が忘れられてしまった理由を考察することである。以前拙noteでは、現在では忘れられた民俗学研究者である出口米吉を取り上げたが、その際もこのことを考察した。なぜこのようなことを考えるかというと、現在の歴史の見方や歴史の見方の歴史の構造を再検討するきっかけになる可能性があるからである。

 なぜ哲雄は忘れられてしまったのだろうか?という質問に戻りたい。前章で述べたように若くして亡くなったことも理由であるが、評価者がいなかったということもあげられると思われる。当たり前のことかもしれないが、当時の知名度と歴史上の知名度、評価は別物である。意外かもしれないが、哲雄の境遇と対照的な人物として私が考えたのが宮沢賢治である。宮沢は1896年に誕生して1933年に亡くなっているが、宮沢の生年は私が推定した哲雄とほぼ同じで、哲雄と同じく若くして亡くなっている。「ヨミダスパーソナル」で宮沢に関する記事を調べてみると、私が確認した限りでは、宮沢は生前に『読売新聞』で取り上げられたことがない。哲雄は前章で述べたように、度々「よみうり抄」などで取り上げられており、生前の文学・芸術仲間の外での知名度や期待は宮沢より上であったと言えるだろう。一方で、死後は言うまでもなく、宮沢の方が知られている。両者の知名度は生前と死後で逆転している。宮沢は横光利一や草野心平などの評価者がいたことが現在における評価につながっているが、哲雄は多くの文学者や芸術家と交流があったものの死後忘れ去られてしまった。作家であった宮沢、芸術家・哲学者であった哲雄という立場の違いもあるかもしれないが、両者の大きな違いは評価者の存在であると思われる。

 では、なぜ哲雄は評価者にめぐまれなかったのだろうか。残念ながら私には知識、能力、時間も足りず、この疑問にここで答えることはできない。おそらくこの疑問は哲雄の仕事の歴史的な位置付けを検討することと同じである。哲雄は、東洋を中心とした宗教、芸術、哲学に関心を持っていたため、当時の言論界、思想界での位置付けを検討することが必要であろう。あえて、哲雄を分類するのであれば美学者(哲学者)になるだろうか。言うまでもなく、学問としての美学や哲学は大学を中心としたアカデミズムを中心に展開していたため、その外で活動していた哲雄は評価されることがなかったということも考えられるかもしれない。これは私の推測に過ぎずこれ以上検討もできないため、余計な推測はここで終わりにしたい。いずれにせよ、哲雄の仕事の歴史的な位置付けは今後の課題である。

5 おわりに―残された課題と100年後の誰かに

 以上、哲雄の生涯に関して紹介することができたが、冒頭にも述べたようにこれは不完全である。そこで、今後の研究や調査のために私が考えている課題をあげていきたい。今回年譜を作成することで、哲雄の生涯のアウトラインは分かったものの、年譜の中で取り上げた情報の中にも詳細が分からないものもある。また、『直現藝術論』の中でお礼が述べられている人物であることから、深い交流があったと思われる遠藤隆吉、深田康算、北れい吉、ヘンリー・ブイとの関係性もよく分からない。前章でも指摘したように、哲雄の仕事の当時や歴史的な位置付けも課題であろう。繰り返しになってしまうが、可能であればこれはしかるべき方にやって欲しいと考えている。

 最後に、哲雄の生涯からひとつ教訓を引き出しておきたい。『これからのエリック・ホッファーのために』荒木優太(東京書籍, 2016年)には在野研究者の一人として哲学者・野村隈畔が紹介されているが、国会図書館デジタルコレクションに、野村のテキストが収められて野村はまったく想定していなかったがどこでも誰でも読むことができることを指摘して「自分の研究や調べたことを形として残すことの大切さ」を教訓として引き出している。(注8)これは哲雄に関しても同じことが言えるのではないだろうか?哲雄の『直現藝術論』も国会図書館デジタルコレクションで誰でも閲覧できたからこそ、何の因果か不明だが、忘れられていた哲雄は私に発掘されることになった。このようにテキストとして残っていれば、私が哲雄の著作を読んだように、どこかの誰かに読まれる可能性がある。私のこの拙い文章も、どこのかの誰かに読まれその人の問題意識を少しでも進展できれば幸いである。


(注1)『直現藝術論』では、アメリカに4年滞在したと述べられているが、そのまま理解すると1917年6月以降の帰国になる。しかしながら、平澤は1916年にタゴールに会うなど日本にいたため、つじつまが合わなくなる。よって、それ以前の1915年、1916年ごろに帰国したと考えるのがよいだろう。以下の記事も参照。

(注2)今後さらに検討を要する部分である。年譜中に記述したように、『直現藝術論』では、高等予科のことであると考えられる「政治科の予科」に入学と述べられているが、『早稲田大学百年史』を確認すると、哲雄の早稲田入学時の高等予科の修業年数は1年半と考えられるため、1916年に入学したとすると卒業年の1919年と時系列的に合わなくなる。今回は暫定で1916年を早稲田大学への入学年としたが、さらなる調査が必要である。

(注3)ウェブ上では南方熊楠の書簡の中に登場する「平澤哲雄は三土忠造の弟」という情報が正しいように流通しているが、これは間違いである。「平澤哲雄は三土忠造の親戚である」が正しい。このことは以下の記事でも指摘した。

(注4)開催された時期に関しては、日本美術院のウェブページ上の「日本美術院沿革」を参照した。

(注5)年譜の作成のため参照したブログ『南方熊楠のこと、あれこれ』でもこの新聞記事が紹介されている。以下の記事を参照。

(注6)煩悶青年に関しては、以下の論文を参照した。

(注7)ポール・リシャールやタゴール以外に、私は、平澤の東洋の哲学への関心に影響を与えた人物のひとりに日本の美術に精通したヘンリー・ブイの存在があると考える。年譜中にあるように、平澤はヘンリー・ブイの追悼会で追懐談を代表の一人として述べたり、『直現藝術論』の影響を受けた人物の一人にブイの名前を挙げたりしていることから、平澤とブイの間には何らかの交流があったことが分かるが、詳細はよく分からない。おそらく平澤がアメリカ滞在中に何らかの交流があったのではないかと考えている。

(注8)この文章は、以下のウェブでの連載がもとになっているのでウェブ上でも閲覧可能。



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