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謎の男・平澤哲雄の没年を考える

 毎度お世話になっている国会図書館デジタルコレクションだが、まだまだ私の活用できていない資料が存在している。先日投稿した記事のための調べものをしていた際に、いくつかの大学の同窓会の戦前に発行された名簿もあることを知った。調べていると、早稲田大学の同窓会の名簿も一部閲覧できることが分かった。早稲田大学で思い出したのは、ずいぶん前に「謎の人物」として下記の記事で取り上げた平澤哲雄である。

 彼の体験も書かれている『直現藝術論』によると、早稲田大学の政治学科を卒業したらしい。国会図書館デジタルコレクションでは、1925、1927年発行の『早稲田大学校友会会員名簿』及び1928年発行の『会員名簿索引』が閲覧できるが、以下のように平澤の名前が確認できた。赤字で囲んだ部分に注目して欲しい。

平澤哲雄 早稲田  1

(画像は『早稲田大学校友会会員名簿』(早稲田大学校友会,1925年)より引用)

平澤哲雄大 早稲田 1928

(画像は『会員名簿索引』(早稲田大学校友会,1928年)より引用)

 ここからいくつかの事実が分かる。まず平澤が大正8年(1919年)に大学部の政治学科を卒業していることが裏付けられた。南方熊楠に「法螺の音が太い」と評された平澤も自分の経歴は偽らなかったようだ。ウェブで閲覧できる『早稲田大学百年史』によると、当時の早稲田の大学部の修業年数は3年であったようだ。『直現藝術論』で平澤は当時は修業年数が1年半であった予科(注1)にも在学していたと述べていることから、平澤の帰国は1914年であったのではないかと推測されるが、1913年6月に渡米しており帰国には少し早いようにも思われる。

 次に引用した名簿の平澤の名前の書かれ方から平澤の没年が絞り込める。『早稲田大学校友会会員名簿』(早稲田大学校友会,1925年)の凡例によると、死亡者は六号文字で記載されている。この名簿は1925年11月のデータに基づいているが、平澤はこれ以前に亡くなっていたようだ。上記に紹介した記事では、平澤の没年を南方の1930年8月20日の書簡以前としたが、今回確認した資料からは没年を1925年11月以前と絞り込めるようになった。

 『早稲田大学校友会会員』は毎年発行されていたようなので、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できないものに関しても現存して調べることができれば、平澤の没年を特定できるようになるかもしれない。あいかわらず分からないことの方が多いが、少しは前進したのだろうか。

   最後に余談だが、『会員名簿索引』の平澤が載っている次のページには本山桂川(本名は本山豊治)が載っている。平澤の先輩であったようだ。

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(注1)これは高等予科のことではないだろうか。『早稲田大学百年史』によると、1917年より高等予科の修業年数が1年半から2年に延長された。大学部の修業年数を考慮すると、平澤は1917年には大学部に在籍していたと思われるので、平澤が高等予科に在籍していた際の修業年数は1年半であったと考えられる。

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