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南方熊楠の書簡に登場する謎の人物・平澤哲雄の父・平澤三郎とは何者か?

 以前、南方熊楠の書簡に登場する謎の人物・平澤哲雄に関して投稿した記事で彼の父「平澤三郎」に関して埼玉県の出身であること以外は何も分からなかったと述べたが、彼の素性が断片的ながら分かったので紹介していきたい。

 渋沢栄一が関わっていた事業に関して詳細を記録した『渋沢栄一伝記資料』は現在一部を除いてウェブで閲覧できるようになっている。渋沢は埼玉県人会の組織に関わっていたので、その関係で何か分かるかもしれないと考えて調べてみると、平澤三郎に関して以下の記述をみつけた。

竜門雑誌  第一四六号・第二一―二四頁 明治三三年七月
青淵先生授爵祝賀会紀事 其之二
埼玉県有志者の祝賀会(六月二日)
埼玉県の有志者九十余名には、去る六月二日先生の授爵祝賀会を帝国ホテルに開かる、当日総代竹井澹如氏の朗読せられたる祝文左の如し(中略)当日の招待状に列記せられたる主人は、左の九十二名なりし(中略)繁田武平・平沢三郎・久田捨次郎(後略)(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第29巻  P276-277 No. DK290089k-0005より引用。2020年6月29日 18:49最終閲覧。筆者が重要と考える箇所を太字にした。)(注1)

渋沢は1900年に男爵を授けられたが、それを記念した埼玉県出身者の祝賀会に「平沢三郎」という人物が招待されていたことが分かる。上記の資料中に「当日の招待状に列記された人物」とあるので、「平沢三郎」が実際に祝賀会に出席したかどうかは分からない。しかしながら、渋沢の授爵祝賀会に招待されていることから、「平沢三郎」は埼玉県内でかなりの有力人物であったと推測される。

 これだけでは、この「平沢三郎」が、平澤哲雄の父親であるかどうかは不明だ。そこで、有力な人物の多くが掲載されている『人事興信録』を調べなおしてみたところ、第8版(1928年発行)に平澤三郎の名前があるのを確認できた。平澤三郎の名前は、『人事興信録』の第8版に初めて登場し、第12版(1940年)まで確認できる。記載されている内容はどの版も大きな違いはなかった。この記述に基づいて重要と考えられる情報を簡単に以下のようにまとめてみよう。

平澤三郎 正七位勲七等。埼玉県多額納税者。武州鉄道(株)取締役、埼玉県郵便局長会副会長、菖蒲郵便局長、農業、埼玉県在籍
1872年に埼玉県熊谷町斎藤太郎兵衛の次男として誕生。後に先代倉吉の養子となり1904年に家督を相続する。1886年立教大学に入学、在学5年の後に1891年東京専門学校英語専修科を卒業。現在、武州鉄道会社取締役、多くの地方名誉職を兼任して農業を営む。埼玉県多額納税者でもある。二女の須磨子(1898年8月生)は香川県人宮脇梅吉に嫁いでいる。他の家族は、滋(1902年5月生)、実(1907年12月生)、健児(1910年2月生)など。(筆者が重要と考える箇所を太字にした。)

「埼玉県の名士」と言えるような経歴である。上記に紹介した平澤哲雄の別の記事に引用した南方熊楠の書簡の中にに登場する「宮崎梅吉」の妻「須磨子」に関しても述べられていることから、この平澤三郎が平澤哲雄の父親であろう。平澤哲雄はかなりの上流回想の出身であったことが分かる。また、社会的な地位を考慮すると、渋沢の授爵記念祝賀会に招待された「平沢三郎」も平澤哲雄の父・平澤三郎とおそらく同一人物であろう。

 ここで気になるのは、『人事興信録』の家族の紹介の中に平澤哲雄の名前がないことだ。彼の著書である『直観芸術論』のP14に、「一家の長男と生れ」とあることから平澤三郎の家の長男であったことが分かる。この親子の間に何かトラブルがあったのだろうか?この本によると、平澤哲雄は、16歳のときからアメリカを放浪、就職後もインド美術の研究に熱中するなど、自由奔放に生活していたことがうかがえる。長男であるといっても、三郎は哲郎に愛想をつかしていたのかもしれない。

 今回調べて分かったことから、前回分からないことのひとつとして取り上げた南方が哲雄の世話で岩崎家から研究費として1万円を援助されたことも納得がいく。哲雄が埼玉県有数の実業家の家系出身であることを考慮すると、おそらくその関係性を使って資金援助を依頼したのではないだろうか。詳細が気になるところだ。

(注1)元のリンクは下記。

(2021/7/24追記)追記が非常に遅れてしまったが、『人事興信録』に平澤哲雄の名前が載っていないのは、哲雄が1925年に亡くなったからであることが分かった。以下の記事の中を年譜部分を参照。


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