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「民際的」とは何か?―南方熊楠と『芳賀郡土俗研究会報』の事例から

 今日はまったく違うことを調べていたときに、長い間疑問に思っていたことがたまたま解決したのでそのことに関して記事にしていきたい。

 栃木県逆川村(現在の茂木町)の郵便局員であった高橋勝利を中心に組織された芳賀郡土俗研究会によって、1929年より発行されていた『芳賀郡土俗研究会報』という民俗学の雑誌があった。(注1)この雑誌は一地方の小さな雑誌であるにもかかわらず、柳田国男、中山太郎、南方熊楠といった現代でも著名な民俗学の研究者が投稿している。柳田は自身の先祖の出身地として栃木県に興味を持っている(注2)、中山は栃木県の出身と栃木と関係が深く投稿した理由は何となく想像できるが、栃木にあまり関係のない南方がなぜこの雑誌に投稿していたのだろうか?しかも、『追憶の柳田國男 下野探訪の地を訪ねて』中山光一によると、南方は下記のように複数回投稿している。

「一目の虫」(『芳賀郡土俗研究会報』 第6号)
「尻尾の尻尾のまた尻尾にのる」(同上 第9号)
「芳賀郡土俗資料第一編を読む(一)」(同上 第9号)
「練粉を塗る話」(同上 第10号)

 先日、「1930年代の地方民俗学雑誌の実践―高橋勝利の『芳賀郡土俗研究会報』」という論文をたまたま見つけたので、読んでみると上記の疑問が解決した。この論文によると、高橋勝利が柳田に自身の著作『性に関する説話集』を送ったところ、柳田に南方にも送るようにアドヴァイスされたという。南方に送ったことがきっかけとなって、南方が高橋の雑誌に投稿するようになったようだ。

 南方熊楠顕彰会のホームページで確認できる書簡・来簡の一覧によると、高橋からの来簡が1通所蔵されている。自身の著書を送ったときの書簡かどうかは不明だが、何かしらの交流があったことは確かであるようだ。

 他にも、南方は本山桂川の発行していた長崎県の民俗学研究の雑誌『土と鈴』にも投稿していたことが知られている。(注3)南方は雑誌の大小や発行場所はあまり気にしていなかったように思われる。

 社会学者・鶴見和子は、神社合祀を国家規模の問題でなく地球規模の環境問題と捉え、海外に反対運動への協力を求めようとした南方を「民際的」と評した。(注4)雑誌の格、発行者の肩書、発行場所を問わずに投稿していたことも南方の「民際的」な一面をよく表していると思う。

 また、南方の事例は、従来の「中央の柳田国男・それに従う地方の研究者(採集者)」という構図からはみ出す部分があると思う。引用した論文でも指摘されているように、中央と地方、地方と地方の多様な交流により、1930年代の民俗学研究のネットワークが交流されていたようだ。このような事例を私も見つけていきたい。

(注1)『追憶の柳田國男 下野探訪の地を訪ねて』中山光一、『柳田国男の歴史社会学 続・読書空間の近代』佐藤健二を参照した。

(注2)柳田国男は松岡家から柳田家に養子に入ったが、この柳田家の先祖が栃木県の出身であったようだ。柳田は先祖を調査するために、1906年4月1日から4月3日にかけて栃木県の東部を訪問している。

(注3)「思い出すままに(南方閑話前後)」本山桂川(『南方熊楠全集』平凡社 月報2)より。ただし、参照した本は『南方熊楠百話』飯倉照平・長谷川興蔵編。

(注4)日本民俗学体系4『南方熊楠 地球志向の比較学』鶴見和子

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