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西田幾多郎の日記にも登場する謎の人物・平澤哲雄

 以下の記事で、ウェブ上で検索してもほとんど情報の見つからない謎の人物・平澤哲雄に関して紹介をしたが、今回は西田幾多郎との交流に関して記事にしていきたい。

 平澤哲雄の著作である『直観芸術論』に西田幾多郎は序文を寄せており、両者の間に何かしらの交流があったことが伺える。新版の『西田幾多郎全集』(岩波書店)の第17、18巻は西田の日記になっているが、この中に平澤が登場する。該当箇所を以下に引用してみよう。

大正7年(1918年)9月11日(水)昨日より金沢より帰る 平沢哲雄といふ画家尋ね来る狂のような人なり(後略)
大正13年(1924年)2月26日(火)平沢哲雄来る (すべて新版の『西田幾多郎全集』(岩波書店)第18巻より引用)

平澤は西田には画家として認識されていたようだ。また、興味深いのは、平澤が西田に「狂のような人」と認識されていたことだ。これは以前の記事で引用した南方熊楠や永井荷風の評価と似ている。以下に再度両者の平澤に対する印象を引用してみよう。

(前略)この人(筆者注:平澤哲雄)特製の法螺の音が太い。(後略)(『南方熊楠全集9』平凡社の岩田準一あての書簡(昭和6年8月20日南方記)より引用)
(前略)そもそも平沢夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず。数年前木曜会席上にて初めて相識りしなり。(筆者注:平澤哲雄が)其後折々訪来たりて頻に予が文才を称揚し、短冊の揮毫を請ひなどせしが、遂に此方よりは頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出だせしこともありき。大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時、夫婦の者交るる来り是非にも予が家の御厄介になりたしといふ。情なくも断りかね承諾せしに、即日車に家財道具を積み載せ、下女に曳かせ、飼犬までもつれ来れり。夫平沢は年二十八歳の由、三井物産会社に通勤し居れど、志は印度美術の研究に在りと豪語せり。(後略)(『荷風全集 第二十一巻』(岩波書店)より引用。)

いろいろな人にうさんくさそうな人物と考えられていた平澤の性格や日常生活が気になる所だ。

 残念ながら、西田の日記には平澤との交流のきっかけや具体的な交流などの重要な情報は書かれていなかった。新版の『西田幾多郎全集』の第24巻の索引にも、西田と平澤の詳細の交流は不明とのみ書かれていた。謎は深まるばかりである。

(追記1)西田幾多郎の日記は、訪問者、注文した本、その日にしたことが簡潔に書かれているのみで、訪問者に対する西田の印象が記されていることはあまりない。その中で、平澤哲雄が「狂のような人」であると評されているのは、平澤がよっぽど西田の印象に残ったのだろう。(2020/8/12追記)

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