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柳田国男=民俗学者なのか?―『柳田国男の民俗学構想』室井康成の書評から

 先日、『柳田国男の民俗学構想』室井康成(敬省略)を読了したので、自分の理解を深めるために拙いながらも内容の概略と感想を述べていきたいと思う。

 一言で表現すると、この本の主題は柳田国男が民俗学を構想した“動機”の探求にある。柳田は民俗学を「民俗」を探究して過去に遡行する学問でなく、現在の問題を解決するため、特に人々を拘束する「民俗」を可視化・克服し、自分で物事を考え、判断できる人材を育てるための学問として構想していたということを、当時の文脈・言説空間に柳田のテクストを引き戻すことで丹念に論じている。とりわけ、柳田は普通選挙制が施行される中で、人々が「民俗」に拘束されず自分で思考・判断して投票できるようにすることを課題として持っていたことが指摘されている。

 しかし、柳田の民俗学の持っていた現代志向性、その政治的な問題意識が、その後の民俗学の発展・アカデミズム化の流れ中で忘れられてしまった。このことを著者は批判的に指摘し、柳田の問題意識や“動機”に立ち戻って現在の民俗学のあり方を再検討することを主張する。

 以下がこの本の構成になっている。それぞれの章で、柳田の構想した民俗学には現代志向性、政治的な問題意識や“動機”があったということに焦点が当てられ、著者の問題関心が一貫している。

序章   本書の性格と狙い

第1章 『遠野物語』は聖典なのか その“神話”化をめぐる言説空間

第2章 『遠野物語』執筆における柳田国男の“動機” その農政論との関わりをめぐって

第3章 同情と内省の同時代史へ 柳田国男の政治をめぐる「民俗」への視点

第4章 柳田国男と選挙自粛運動 「政治教育」としての民俗学の構想と破綻

第5章 柳田国男と教育基本法 「公民」観の位相と戦後民俗学構想をめぐって

第6章 「個人」を育む民俗学 山口麻太郎における「政治教育」の実践とその意義をめぐって

第7章 不公正なる「民俗」 きだみのるにおける柳田民俗学の実践と挑戦

結論  民俗学は、政治である

 上記の章は、序章と終章をのぞけば下記のように論点ごとに3つのグループに分けられると思う。

①第1章~第2章 柳田のテクストとしてもっとも親しまれている『遠野物語』の論じられ方、受容のされ方を批判的に検討し、柳田のこのテクストを生み出した“動機“を農政を担当する国家官僚としての側面や当時の時代状況から再定義する。

②第3章~第5章 戦前から戦後にかけての柳田の仕事の中に、人々を拘束する「民俗」を克服し、自分で判断・投票できる「公民」の育成という一貫した“動機”があったことを柳田のテクストの読み直し、当時の時代状況、1920年代後半からの青年団運動・選挙粛清運動を推し進めた田澤義鋪(注1)との交流、戦後の柳田の教育をめぐる仕事から検討する。

③第6章~第7章 柳田が構想した現代志向、政治的な問題意識を含む民俗学が柳田以降に実践された例を壱岐島在住の民俗学の研究者・山口麻太郎、作家・きだみのるの仕事から、柳田の“動機”の継承を検討する。

以下にそれぞれグループの論点を見ていきたい。

 グループ①について

 第1章では、『遠野物語』の受容のされ方が批判的に検討され、このテクストをめぐる“神話”の解体が行われる。『遠野物語』には、「文学作品」、「民潭のテクスト」、「柳田の政治性を看取する」テクストとしての3通りの読み方がある。この中で、特に後世に大きな影響を与えたものとして、『遠野物語』を「民潭のテクスト」として読み古代を透視しようとした折口信夫の解釈が取り上げられる。1935年に『遠野物語 増補版』が出版された際には、柳田と折口の間には民俗学をめぐる見解の相違があった。柳田は現代の問題の解決、政治教育のための民俗学を想定していたが、折口は古代に遡行する民俗学を想定していた。折口やその弟子たちによって、後者の想定に基づいた『遠野物語』の解釈が確立され、1970年代以降の『遠野物語』の再発見、読み直しの動きと融合してその解釈は強固になっていった。さらに、それが遠因の一端ともなって個別の事例にばかり着目し、その収集と類型化に関心を寄せる現在の民俗学像が形成された。

 第2章では、前章を受けて柳田が『遠野物語』を編んだ“動機”を農政官僚としての側面から再定義されていく。柳田の農政論では、農業技術=生産性の向上を図ることを目的としているが、柳田はそれを阻む要素として惰性的に伝承されてきた慣習や習慣を発見した。これらの慣習や習慣(=「民俗」)を克服するための意識改革が柳田の農政論の重要な点であった。この観点から『遠野物語』を再検討すると、その描かれた世界は、非合理的な価値観が人々を支配しており、その人々は啓蒙・改革の対象となる。

 また、この観点から『遠野物語』の出版された当時に柳田が想定していた読者の再検討が行われる。日本の「民俗」の良さを忘れないようにという意図でなく、柳田の影響を受けた石黒忠篤ら当時西欧に留学していた国家官僚に対して、前近代的な価値観に思考を拘束された人々のことを忘れないで調査・研究にはげめという意図で、柳田は『遠野物語』を出版した。

 グループ②

 第3章では、柳田が構想していた政治を課題とする民俗学の意義やそれを通じて実現できる社会のあり方を柳田のテクスト、先行研究、時代状況から検討されていく。“現在”を生きる人々の生活様式を規定する前近代的な思考や感覚が「民俗」で、それは分析することではじめて現出するものであると柳田は考えていた。この「民俗」を分析する学問としての民俗学の体系化への柳田の模索は、朝日新聞時代の現実政治への関心、「民俗」に拘束されず自立的な判断ができる「公民」教育の必要性の中で進んでいった。特に、親方・子方の慣行に基づく人間関係、人の資質を度外視して家筋の良さに正当性を見いだそうとする「事大主義」的な態度(注2)を主な例として、政治家の特権意識とそれを許容する一般民衆の事大主義とが相乗して現出した「民俗」が自覚されず、一向に打破されないことを柳田は問題視していた。この問題を克服するための学問が柳田国男の構想した民俗学であった。

 第4章では、前章を受けて柳田の構想した政治を課題とする民俗学の実践例として、同時代に勧められた田澤義鋪の青年団運動・選挙粛清運動と柳田の関係が検討される。柳田と田澤は早い段階から交流を持ち、お互いの思想に影響を与えていた。特に、柳田の構想していた民俗学の目的は「公民」の育成で、普通選挙制度の導入により新たな政治の当事者となった青年層をターゲットとしていたため、問題意識を両者は共有していた。

 柳田が支持し、田澤が進めようとした選挙粛清運動は、当初の目的は選挙の不正を取り締まるための運動であったが、政府の干渉によって、候補者を統一しておく「部落推薦制」、推薦された候補者への投票を天皇や神様に誓うという形で確約させる「神前宣誓」、監視の強化による有権者の「選挙嫌い」などの新しい「民俗」が形成されてしまった。選挙粛清運動が失敗に終わった後、柳田は現実政治に対して一時沈黙するが、「公民」の育成のための民俗学の実践は、戦後の小学生をターゲットとした社会科教育に引き継がれていく。

 第5章では、前章の問題意識を引き継ぐ形で、戦後に柳田が関わった教育基本法の成立と「公民」を育成するための民俗学の関係が検討される。柳田は戦争の原因を、自律的な判断を棚上げして、「個人」が「大勢」あるいは「みんな」の空気に没我的に流されてしまった「事大主義」に求めており、柳田の想定している「公民」は教育基本法の制定過程で議論された「公民」像に近かった。このような「公民」を育成するために、特に初等教育で学ぶ学生向けに、柳田は国語科や社会科の教科書作りに取り組んだ。人々を拘束する「民俗」を可視化して克服するためには、言葉により説明して「民俗」と自己との関係を明らかにしなければならない。柳田は、「民俗」を調べるということが、調査する人々の語彙を豊かにし、言葉を鍛えることにつながると考えていた。よって、民俗学の実践は国語教育の訓練であり、その積み重ねが「公民」の育成になる。

 グループ③

 第6章では、柳田の民俗学の実践を引き継いだ民俗学研究者・山口麻太郎の長崎県壱岐島での実践が論じられる。従来の山口の業績は「地域民俗学」の先行者として学史上に位置付けられるだけであったが、地方で柳田の理想を忠実に実行した実践者でもあった。山口は戦後、自身の住んでいる農村の問題から自律的な判断力をそなえた「個人」の育成を考えており、人々を拘束する「民俗」を可視化するための学問の必要性を主張していた。民俗学そのものを地域文化向上のための教育手段として捉えていたのである。

 第7章では、作家・きだみのるの実践が論じられている。きだは、『気違ひ部落周紀行』の作者として知られているが、柳田の影響を受けて「義理」をテーマとして、部落社会に身を置き人間関係を観察していくことになる。その中で、部落内にある親分・子分の関係を人々を拘束する「民俗」として捉え、それが選挙にも影響を及ぼしていることを発見する。きだはこの「民俗」を生活改善や文化の向上をさまたげるため、克服すべきものであると考えていた。

 むすびでは、柳田の民俗学はあくまでも人々を拘束する「民俗」を可視化して、克服するために構想されたことが確認され、現代の問題にも踏み込まれている。柳田の「公民」教育理想を多分に反映させた教科書は、高度経済成長と進学第一主義によって忘却されて、民俗学界でも民俗学の社会的有用性を自覚した柳田の強烈な使命感はほとんど「伝承」されなかった。「民俗」や「民俗学」の今日一般に想起される保護・活用というありがたいイメージと、「民俗」を検証・克服するものと柳田が考えていたイメージとの差異が指摘され、「政治的」なありようこそが民俗学の個性であったということが指摘され、現代の民俗学のあり方の再検討の必要性が示唆されている。

 以上が、章ごとの論点の概略であるが、次に拙いながら私の感想や問題意識を簡単に述べていきたい。私が読んだ限りでは、2010年代の柳田研究(注3)の潮流のひとつに、民俗学者・文学者・国家官僚・教育者など個別に捉えられてきた柳田像が、テクストの読み直しによって、複数の面を関連させて捉える傾向がある。特に、民俗学の先に自律した「公民」の養成を考えていたという「民俗学者」という枠では捉えられない「国家構想者」や「思想家」として柳田を捉えなおそうとする研究や出版物が多くなっている。(注4)本書が出版されたのは2010年だが、この潮流の先行する研究として位置付けることができるのではないだろうか。

 私が、本書から引き継ぐべき問題意識として考えたのは戦後の柳田国男の仕事やその位置づけである。本書では教育基本法、国語・社会科教育、柳田の理想とした民俗学を中心に戦後への継承が検討されているが、この問題意識を拡張させると柳田の戦後史における位置づけを探ることになるかと思う。とりわけ私の関心は、戦後の思想史の中における柳田の位置付けにある。上記の概略では触れられなかったが、柳田が戦後次世代を担う言論人や文化人と様々な交流をしていたことは本書でも指摘されている。柳田国男と長年交流のあった飯島衛は、『花田清輝全集 別巻2』付属の「月報17」の「柳田国男と花田清輝」という文章で、柳田は若い世代に期待をかけているように見えたと述べている。柳田自身が「伝承者」となって戦後に何を伝えようとしていたのかという問題は今後さらに様々な方面から探求していくべき課題であると思う。同時に、それは戦後史の中に柳田やその仕事・思想を位置付けていくことにもつながるであろう。

 最後に、柳田の中で自律した「公民」と天皇制がどのように両立していたのかが気になった。これは私の不勉強でもあるので、今後調べていきたいと思う。

(注1)田澤義鋪に関しては例えばこの論文が参考になる。

(注2)同じ著者の『事大主義―日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」』(中公新書)によると、「権力や自分よりも格上の者の意向を絶対視し、その言いなりになるだけの卑屈な態度、無定形な行動様式」のことを事大主義という。

(注3)この文章を書くにあたって自分の中で整理したので、後日改めて文章にしたい。

(注4)私が知る範囲では、例えば、『柳田国男の歴史社会学 続・読書空間の近代』佐藤健二(せりか書房)、『社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』大塚英志(角川EPUB選書)、『柳田國男民主主義論集』大塚英志編(平凡社ライブラリー)、『「小さきもの」の思想』柄谷行人編(文春学藝ライブラリー)『柳田国男―知の社会構想の全貌』川田稔(ちくま新書)など。

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