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ついに判明した謎の男・平澤哲雄の出身中学校

 この記事は、以下の2つの記事の続編になるので、可能であればこの記事を読む前に読んでいただきたい。結論だけ知りたいのであれば、この記事だけでも問題ないが。。。

上に引用した2つの記事で平澤哲雄は立教中学校の出身ではないだろうか?という推理を行ったが、それを裏付ける資料となる昭和3(1928)年に発行された立教学院校友会の『会員名簿』を入手することができた。以下がこの本の表紙と奥付けである。

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この『会員名簿』によると、平澤は大正2(1913)年に立教中学校を卒業している。興味深いのは、以前の記事で取り上げた帆足秀三郎、荻野定一郎も平澤と同じ1913年に立教中学校を卒業していることである。つまり、平澤、帆足、萩野は同級生であった。

 このことから平澤の著書である『直現藝術論』(下出書店, 1922年)に登場する「築地の中学」が立教中学校であることが裏付けられた。また、この本の以下の記述が正しい可能性が高まった。

顧みれば、それは自分が築地の中学を卒へてまもない頃であった。
燃ゆるが如き希望と華やかなる冒険心とに満ちた心は、遂にその力に動かされて、僅かに満十六歳に過ぎなかった私をして、永い間その心の底に発酵され来つた思想に身の一切を委ねしめ、一家の長男と生れ、親族の愛を一身に集めて居り乍ら、無謀にも生活上何等の成算もなく、故国を離れて大洋を横切り遠くアメリカ合衆国へ漂白させたのである。(一部筆者により現代仮名遣いにあらため重要な部分を太字にした。)

この後に1913年6月にアメリカへ出発したと述べられているので、平澤は1913年に立教中学校を卒業した後16歳で渡米したと言うことができるだろう。これは上に引用した『会員名簿』の情報と時系列的に矛盾しないことを考えると、正しい可能性が高そうだ。渡米した年齢から逆算すると、平澤の生年は1896年、もしくは1897年になる。

 自伝的な文章の年代の記載は疑わなければならないということは私が言うまでもないが、最近になって平澤の『直現藝術論』に記載されている年代の表記も例外ではなく、かなりあやしいということに気が付いた。たとえば、第一次世界大戦の開始を平澤はこの本の中で1913年と述べているが、実際は1914年である。また、平澤自身の自伝的な部分にもあやしい部分がある。平澤は日本への帰国時に「自分は四ヶ年振りに日本の地を踏んだのである」と述べている。この記述に基づくと、平澤の帰国は1917年であるが、平澤が1916年に雑誌に投稿していた文章の題名を確認すると、本文は未見ながら明らかに日本にいないと書けないと思われる文章がいくつかある。(注1)そのため、平澤の『直現藝術論』の裏付けはできる限り行う必要があると考える。

(注1)平澤の雑誌投稿記事に関しては、以下の記事を参照していただきたい。


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