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有島武郎とも交流のあった謎の男・平澤哲雄

 拙noteでも度々取り上げている平澤哲雄だが、いろいろ調べている中で有島武郎とも交流のあったことが分かった。以下の記事でも紹介したように、平澤は、『読売新聞』1923年7月10日朝刊に「死の暗影を訪ねて 有島氏を想ふ」という文章を投稿している。

この文章によると、平澤が最後に有島とあったのは有島の亡くなる2ヶ月ほど前の大山郁夫の出版記念会であったようだ。この文章の中には、「此時の氏(筆者注:有島)はその前に遇ったときより」という表現があるため、大山の出版記念会以前から平澤と有島の間に交流があったことが分かる。

 両者の間にどのような交流があったのかを調べるのは難しい。『有島武郎全集』第15巻(筑摩書房, 1986年)に収録されている「住所録手帖」には、平澤の住所が「日本橋区中洲海岸入吉村方」とあるため、書簡のやり取りがあっただろうと推測される。「吉村方」は、平澤の妻であった吉村せい子の家であろう。しかしながら、私が確認した限りでは『有島武郎全集』には平澤宛ての書簡は収録されていなかった。また、『有島武郎全集』第12巻に収録されている有島の日記にも、平澤が登場する箇所がいくつかある。以下に引用してみたい。

(一九一八年五月)二十三日(木) (前略)僕はそれに反対し、石井の所で生活するように忠告した。平澤が来た。(後略)
(一九一八年八月)二十八日(水) (前略)夕方、東京へ戻る。平澤が来て、一緒に銀座を散歩する。(後略)
(一九一八年九月)二日(月)晴。朝のうち少し書く。『先駆者』を読了する。とても印象的。夜、平澤来訪。

上の引用部分が平澤哲雄かどうかは残念ながら分からない。上で紹介した「住所録手帖」には、平澤太暲(画家の平澤大暲か?)という人物も記載されており、この人物なのか、哲雄なのかはこれだけでは判断できない。以上のことから、哲雄と有島の間に交流があったことは確からしいが、その詳細は謎のままである。

(2020/12/14追記)後で有島の日記を読み直してみたらいくつか抜けていたことに気が付いたので、追記しておきたい。1916年10月23日の届いた手紙の送信者を書き出した中に「平澤」の名前が確認できる。また、1917年2月28日に「平澤から手紙をもらう」とある。これらも上で紹介した記述と同じく哲雄なのかどうかという判断はできない。


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