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「資本論」冒頭のマルクスの姿勢

カール・マルクスの「資本論」には大きな影響を受けました。といっても、その影響の殆どは第1巻第1節の短い冒頭の文章によるものです。
長い幾つかの序文が続いた後の本文の冒頭を読んだ時、私はどきりとして、その文は私の記憶に刻まれました。

「資本論」冒頭の多様性

その文章は向坂逸郎訳 (岩波書店) ではこのように訳されています。

資本論主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大な商品の集積」として現れ、個々の製品はこの富の要素形態として現れる。したがって、われわれの研究は商品の分析から始まる。

資本論」(一)  向坂逸郎訳(岩波書店)(*1)

そして、私が最初に手にした新日本出版社の訳がこちらです。

資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。

「資本論」新日本出版社(*2)

どちらも良い訳です。しかし私が最初に読んだのが、
1つ目の訳であったなら、私は強い影響を受けなかったのではないかと思います。

何が違うかというと1つ目での「社会」が2つ目の訳では「諸社会」となっている点です。
これは些細ささいな違いのようですが、そうではありません。

「社会」の部分は英語では Societies ドイツ語でもGesellschaftenとどちらも複数形になっています。
諸社会という言葉は日本語としては少し不自然ですが、対語的な訳であると云えます。(注1)

その対語的な部分が良いのです。(注5)

なぜならこの訳を読んだ私の中に

① 資本主義的な生産様式をしゅとする複数の社会がある。
② それら諸社会には主ではないが、資本的ではない生産様式も存在する。
③ そしてそれら諸社会の間もしくは周辺には、資本主義的生産様式を主としない社会も複数存在する。

という諸社会と諸様式の全体像が自然と浮かんで来たからです。

②は最初の訳からも認識可能ですが、①と③、特に③は難しくなるのではないかと思います。もちろん不可能ではないが、少なくとも直感的には浮かんでこないのではないでしょうか?
そして①と③の認識がないと、②の認識も閉塞へいそく的なものになってしまいます。

マルクスはここで資本主義社会という雑駁ざっぱくな言葉を使わなかっただけでなく、自分が経済を分析するにあたり研究の焦点と定めた諸社会・諸様式とその周辺について、とても精密かつ開かれた眼差しを向けていたのだと、私は思ったのです。

もしかしたら、単に英語やドイツ語ではこういった場合、社会を複数形で現すのが普通であるというだけなのかもしれません。しかしそれが複数形である事を残した訳があったおかげで、私は先の認識を持つ事ができたのです。

丹野正は論文「『資本論』第一章「商品のディアレクティーク」」の第一節の中で先の冒頭部分を「マルクス・エンゲルス全集23a」から下記のように引用しています。

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。(49ページ)

「『資本論』第一章「商品のディアレクティーク」」(*3 )中の「マルクス・エンゲルス全集23a」
からの引用

(注2)

そしてその後でこう述べています。

これは『資本論』第一章「商品」の冒頭の文章である。既述のように、これは換言すれば、富が“商品”という姿をとらない社会も存在した(存在する)、ということでもある。その社会は、資本主義的な生産様式ではないある種の生産様式をとっていた(いる)。そしてその社会の人びとは、 自分たちの富であるさまざまな品物を、“交換(売買)”によらずに互いにやりとりしていた(いる)、ということでもある。  マルクスは、後者のような社会については本書のところどころで必要に応じてごく手短かに触れているだけである。『資本論』の目的は当時の現代西欧社会の解剖学的研究であるが、しかしそれは、後者のような社会との比較検討を基に進められるのである。人びとの富の大部分が、“商品”と いう姿をとる社会を一方の極とすれば、他方の極は、富がまったく“商品”という姿をとらない社会である。さまざまな地域と時代に存在した多くの社会は、後者の極と前者の極の間のどこかに位 置づけられるであろうし、一つの社会の内部に双方の位相が重層化して共存する、そのような社会 もある(あった)であろう。

「『資本論』第一章「商品のディアレクティーク」」(*3)

全く見事な考察です。

しかしこのような事を示すに当たっては、まず冒頭の文章中の「社会」が複数形である事を認識し、その事が必然的にはらんでしまう構図を、その複数性のなかで捉えて、冒頭の文が既に社会と生産様式の多様性を含意がんいしている事を明らかにする必要があると、私は感じます。

マルクスが焦点を向けた社会の複数性は、それ以外の社会と生産様式の複数性、それらの比率や規模の多様性へと芋蔓式にイメージが広がっていくことも可能にします。

そのような多様性は日本が資本主義の後進国であった頃にはむしろ当たり前の現実として感じられたかもしれません。
しかし資本主義的生産様式が支配的となった現在の日本においては見えにくくなっているのではないでしょうか?
そのような状況に於いて、冒頭の文章の含意を明らかにする事は、「資本論」の考察を理解する上でも、また多様な社会と生産様式の全体像を理解する上でも、重要な基礎になると思います。

その上で、マルクスが焦点を向けた「資本主義的生産様式が支配的な諸社会」だけでなく、丹野正が述べたようなさまざまな異なる社会や生産様式についても更に考察を広げ、それを「資本論」の分析とも関連付けて考察する事は有意義なものだと思います。

先へ進めます。(注3)

マルクスの焦点 (商品について)

前述したように、マルクスは焦点を定めた

資本主義的生産様式が支配している諸社会

「資本論」新日本出版社(*2)

の富について

「商品の巨大な集まり」として現れ

「資本論」新日本出版社(*2)

ると言っています。

富についてのマルクスのこの認識は、ある意味で当たり前の事実です。しかし当たり前の事を当たり前に認識する事は分析をする上で大切な事です。

したがってわれわれの研究は商品の分析から始まる。

「資本論」新日本出版社(*2)

なんとも明快な態度です。

この時点では、マルクスが商品というごく当たり前の物に焦点を向けた事が重要だと思います。

後の考察に於いて、商品はより抽象ちゅうしょう的な概念として扱われて行きますし、その端緒たんしょは既にこの文章の中にもあります。ですがそれはごく当たり前の物としての商品に焦点が当たったからこそ、見えてくる認識です。

マルクスの認識が、まず具体的な当たり前の一つ一つの物としての商品に向いている事は

商品はなによりも人間の外部にある対象である。すなわちその属性によって人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つの物である。

「資論」(一)  向坂逸郎訳(岩波書店)(*1)

という簡潔な論旨ろんしの進め方に端的に現れていると思います。(注4)
もちろんここにも抽象的な側面はあります。

しかし抽象abstractとは具体的な対象から抽出されてくるものです。抽象的な分析を段階的に進めていくには、より具体的な物にまず焦点を当てる事が重要であると、マルクスは知っていたのだと思います。その物の手触てざわりをこの文章は残しています。

このようなマルクスの姿勢は、その後の「資本論」の中のあらゆる具体的及び抽象的な議論の基盤になっています。

ここから漸進ぜんしん的に

一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析してみると、商品はきわめて気むずかしいものであって、形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。

「資本論」(一)  向坂逸郎訳(岩波書店)(*1)

という言葉へと至り、更に考察を進めるマルクスの手腕は見事です。(注7)

「資本論」冒頭から学んだ認識


さて、これまでに続けて述べてきた「資本論」冒頭のマルクスの姿勢は、私が物事を考察する上での1つの基礎となりました。

何かを分析しようとする時には、自分が焦点を当てたものとその周辺に対して、まず「資本論」の冒頭の文章ように精密かつ開かれたものとして捉えなければならない。そして分析するための1番重要な核は何であるのかを見定めなければならない。こういった認識が私の中に出来たのです。この認識を得た事は、私にとってかけがえのないものです。

マルクスと「資本論」


「資本論」だけでなく、共著を含めマルクスの書いた代表的な著書はどれも単純ではなく、いつでも何らかの複雑さを秘めています。それは盟友とされるエンゲルスの単純さとは対照的です。

「宗教は阿片である」と言ったと喧伝けんでんされる「ヘーゲル法哲学批判序説」も、そう単純化できるものではありません。しかし、それでも若き革命家マルクスの著書には、プロパガンダ的な側面がなかったとはいえません。(注6)

しかしイギリスへの亡命 (大陸での革命頓挫とんざ)(1849年31才)、共産主義者同盟の解散 (1852年34才)、経済恐慌 (1857年39才) [Wikipedia 2022.6.30. カール・マルクス]と大きな試練と挫折ざせつを経る中で、もう一度自分が批判して来た社会の経済を分析ようと大英博物館図書館(現在の大英図書館)に通い続けて40代後半を迎えたマルクスは、前述した冒頭の文に見られるような精密で開かれた眼を持ってそれにのぞんだのだと、私には映りました。冒頭の文はその宣言であるように思えました。✳︎ ✳︎
そして、多くの挫折の末に、50歳を目前にして、このような認識から再出発する事は簡単なことではないと感じたのです。

「資本論」は一つ一つゆっくりと進みます。それは繰り返される記述と分析と考察の連続です。それらはそれぞれにたいへん示唆に富んでいます。
そは膨大なもので、マルクスは結局それを書き終えずに亡くなりました。
そして、残された草稿は盟友フリードリヒ・エンゲルスによってまとめられました。

生前に出版された「資本論 第1巻(もしくは1部)」だけでも長大なものですが

それは一見すると有名な

資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

「資本論」(一)  向坂逸郎訳(岩波書店)(*1)

というプロパガンダ的な言葉に収斂しゅうれんしているように読めます。

しかし、この言葉は、それまでの「資本論 第1巻」の分析に比べると雑駁ざっぱくに過ぎます。
ここには革命家としてのマルクスが捨てきれなかった希望的観測がにじみ出ています。
少なくとも「資本論」の中でその新たな収奪がどのように行われるのかについて明確に書かれてはいません。
この事についてのマルクスの分析は十分であるとはいえません。

この箇所以外では、「資本論 第1巻」に於いて、マルクスは常に科学的であろうとしています。

それはマルクスを引き合いに出しながらエンゲルスが著書「空想から科学へ - 社会主義の発展 -」で示した「科学的社会主義」という整理された歴史的必然性の証明とは違い、膨大で複雑な仮説の集積です。(注8)

科学の強みは端的な正しさにあるのではなく、仮説である事にこそあります。それは真に批判的な態度によって、その示唆しさするものから、さまざまな可能性を広げて行く事ができます。

エンゲルスはその可能性の1つを示したのにすぎません。(ロシア革命の指導者レーニンが「国家と革命」で示した革命思想はエンゲルスの「空想から科学へ - 社会主義の発展 -」に多くを負っていると、私は思います。)(注9)

長大な科学的仮説「資本論 第1巻」をえて短い言葉で代表させるとしたら

それは

収奪者は収奪される

「資本論」(一)  向坂逸郎訳(岩波書店)(*1)

というプロパガンダではなく、科学的分析のあり方を示した冒頭の文章であるべきであると、私は思います。

それを基礎にして読むならば、「資本論」は読むたび毎に新たな示唆しさを得ることの出来る貴重な古典であると、私は思います。

最後に (「資本論」を読むに至った経緯)


最後に私が「資本論」を読むに至った経緯を少し述べようと思います。それはほんの偶然の事だったのですが、その事が私の「資本論」の理解の仕方に少なからず影響を与えていると思うからです。

10代後半の頃、私は本を読む習慣がほぼありませんでした。
それがある時、用もなく本屋の中をうろついていて、ふとイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」という本が目にとまりました。学校が嫌いでならなかった私は、その本を思わず手に取り、買ってしまいました。
当時の私にとって、とても難しい内容だったのですが、何か自分に必要なもののように思えて、辞書を引きながら必死で読み終えました。

この事があってから、いろいろな本を読むようになったのですが、その1冊にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」がありました。「脱学校の社会」の注に出て来た本でした。
この著書の中で、フロムはフロイトとマルクスの思想を批判的に継承けいしょうし、融合ゆうごうする事を試みています。

フロイトもマルクスも読んだことのない私にはそれが正当な事なのか不当な事なのか分かりませんでした。それでフロイトとマルクスの著書を読み始めました。

学校で習う程度のぼんやりとした知識さえ、2人に対してはありませんでした。だからほとんど手探りで、2人の著作を読んで行きました。いつどのタイミングでとまでは覚えていませんが、そんな経過の中で、「資本論」にも手をつけた訳です。

彼らの著作は、どれもフロムより数段面白かった。フロムの解釈はつまらないものに思えました。
後にフロイトとマルクスの教科書的解説も学びました。こちらも退屈で、それらは彼らの著書とは何の関係もないもののように思えました。

何の前知識もなくマルクスとフロイトの著作を読めた事は、幸運であったと今は思っています。もし教科書的な知識があったなら、それに沿って読んでしまったかもしれません。「資本論」の冒頭の文章でいきなりどきりとするような読み方は、できなかったかもしれません。

改訂歴

(2022.6.30 後半部加筆訂正、2022.7.3.若干の加筆、注5を追加、2022.7.1.注6を追加 、2022.7.10.注7〜9を追加、7.11.改訂歴項目に追加、2022.7.15.注7に最後のパラグラフを追加)2022.11.10. 誤記を訂正(本文前半、「②は最初の2訳からも...」を「②は最初の訳からも...」に訂正)

「資本論」冒頭の翻訳


注1 英語版とドイツ語版「資本論」の冒頭の文章を下記に示します。

英語版

The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevail, presents itself as "an immense accumulation of commodities," it's unit being a single comodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity.

「Das  Kapital」Karl Marx, The perfect Library

About this book

Karl Marx
Das Kapital
Published in 1867
Translated by Samuel Moore and Edward Aveling

The perfect Library

ドイツ語版

Der Reichthum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Waarensammulung“  die einzelne Waare als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Waare.

「Das Kapital」Karl Marx,FELIX MEINER VERLAG HAMBURG

Kitik der Politischen Ökonomie Erster Band

Mit einer Einleitung und einem Kommentar
Herausgegeben von
MICHAEL QUANTE

FELIX MEINER VERLAG HAMBURG

この冒頭の "societies"  "Gesellschaften" は、マルクスが批判したアダム・スミスの「国富論」の正式名称

"An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations" 「諸国民の富の性質ならびに原因にかんするの研究」

「国富論Ⅰ」アダム・スミス 
大河内一男監訳玉野井芳郎・田添京ニ・大河内暁男訳
訳者序

の"Nations"に対応しているのではないかと思います。

「国富論 Ⅰ」大河内一男監訳 玉野井芳郎・田添京ニ・大河内暁男訳 中央公論新社 電子書籍制作日:2013.3.30.
底本:中公クラッシックスW59 「国富論Ⅰ」アダム・スミス 2010.1.10.初版
底本の底本: An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, by Adam Smith, in three volumes, the fifth edition, London : printed for A. Strahan ; and T. Cadell, in teh Strand, MDCCLXXXIX (アダム・スミス「国富論」第五版、1789年)
原著:1776年出版


注2  私が所有している「マルクス・エンゲルス全集」(大月書店)を元に詳細を記します。
「マルクス・エンゲルス全集 資本論 Ⅰa 23a (第23巻 第一分冊) 監訳: 大内兵衛・細川嘉六 大月書店
本巻翻訳者: 岡崎次郎、本巻統一者: 杉本俊朗
1965.9.27.第1刷発行、1979.12.20.第18刷発行

訳者も引用部分の訳文も同一なので、同じものと思われます。

注3 下記に「資本論」の冒頭の文章の中元元訳(日経BP社)を示します。
中元元訳の「おいては」という言葉には、言及されてない諸社会がある事を連想させる作用が少しあるように思います。

資本論主義的生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり」として現れ、個々の製品はその要素形態として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。

「資本論 経済学批判 第1巻 I」カール・マルクス、
中山元訳(日経BP社)

「資本論 経済学批判 第1巻 I」カール・マルクス、中山元訳
2011.12.5.第一版第一刷発行 日経BP社



注4 「資本論」冒頭の文以外のものは、向坂逸郎訳(岩波書店)を使った。
本論冒頭の比較以外にも「資本論」冒頭の文の引用にはには、本論で考察に使った「諸社会」という言葉のある新日本出版社のものを使っているため、少しちぐはぐであるが、向坂逸郎訳(岩波書店)は簡潔であるし、現在比較的入手しやすいものでもあると考え、このようにしました。

注5  このような対語的翻訳は二葉亭四迷の下記のような言葉を想起させる。

例えばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを翻訳するにも同様に神聖でなければならぬ、就ては、一字一句と雖、大切にせなければならぬとように信じたのである。

「余が翻訳の標準」二葉亭四迷

「余が翻訳の標準」二葉亭四迷青空文庫 
2000年5月4日公開、2006年3月27日修正
底本:「平凡・私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社 1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集 第一、二、三、四、七巻」筑摩書房 1984(昭和59)年11月~1991(平成3)年11月
初出:明治39(1906)年1月「成功」

注6  晩年のマルクスが労働運動や革命運動から全く離れてしまったわけではありません。

1864年の第一インターナショナル(国際労働者協会)の創立に際して、マルクス(46才)はその宣言文を書いたし、その後も長く活動を続けています。
マルクスがパリ・コミューンの革命(1871年、53才)を絶賛した事もよく知られています。

経済学の著書だけでなく、『ゴータ綱領批判』(1875年)のような、労働運動と革命運動に深く影響を与えた文書も書いています。(マルクスの死後に出版)

後述するように、イギリスへの亡命 (1849年、31才)、共産主義者同盟の解散 (1852年、34才)、経済恐慌 (1857年、39才)は、マルクスにとって大きな試練と挫折であった事は確かなのではないかと思っています。

経済恐慌などを背景に労働運動が再び盛り上がりをみせ、第一インターナショナルが生まれてくるまでは、マルクスにとって大きな空白の期間で、それまでの活動を見直させる契機になったのではないかと思っています。(その間にも執筆活動を行ってはいるのですが)

(Wikipedia 2022.6.30. カール・マルクス を参照)

注7  本論考は主に「資本論」のみによって考察した。

その補足として、下記に「資本論」の元になった「経済学批判」(1859年出版)(*4)、1961〜63年の草稿(*5)、1963〜64年の草稿(*6)について比較考察した。

1850年頃から徐々にはじめて、1857〜1858年に主に執筆したとされる「経済学批判」(*4)の冒頭にはこう書かれています。

一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。

「経済学批判」(岩波書店)(*4)


日本語訳だけではありますが、一見して「資本論」冒頭との違いは明らかに思えます。「資本論」冒頭の多様性はここには見られません。

1961〜63年の草稿(*5)は、マルサス、リカードなど著名な経済学者の著書と格闘しながらマルクスが残した長大な経済学探求の記録で、「資本論」をより深く理解し、研究するためには貴重な資料であると思いますが、私が本論で取り上げた「資本論」冒頭の文章と直接比較するような記述はないように思います。

1963〜64年の草稿「資本論 第一部草稿 −直接的生産過程の書結果−」マルクス(森田成也訳)(*6)では

ブルジョア的富の要素形態としての商品がわれわれの出発点であり、資本が発生するための前提であった。他方で、商品は今では資本の生産物として現れている。

「資本論 第一部草稿 −直接的生産過程の書結果−」マルクス
(森田成也訳)(*6)


とあり、資本主義的生産様式が支配的ではない社会を含めた歴史的発展の記述に多くが割かれています。

あらゆる生産部門の対象的諸条件そのものも商品として市場に登場するようになる資本主義的生産の基本上でのみ、商品は実際に富の一般的な要素形態になる。

「資本論 第一部草稿 −直接的生産過程の書結果−」マルクス
(森田成也訳)(*6)


資本主義的生産がはじめて商品をあらゆる生産物の一般形態にする。

「資本論 第一部草稿 −直接的生産過程の書結果−」マルクス
(森田成也訳)(*6)


という文章も「資本論」の冒頭を思わせます。

しかし、多くのページが割かれているにもかかわらず、ここで描かれる社会の多様性は、「資本論」の冒頭のような広がりを持ちません。

それは歴史的発展を中心とする1つの視座に誘導されてしまします。それに比べて「資本論」の冒頭からは、あらゆる方向へと連想が広がっていくことができます。

おそらく冒頭の文章から社会の分析へと向かわず、商品の分析へと向かう「資本論」独特の叙述の順序が功を奏しているのだと思います。
それによって、社会と生産様式の多様性への記述は分散してしまいましたが、そのことはマルクスが焦点を向けた資本主義的生産様式が支配的な諸社会の富への分析へと読者を誘いつつ、開かれた多様な社会のあり様を常に片隅に残しておくことを可能にしていると、私は思います。

冒頭の文の後に商品の分析へと向かうことと、社会と生産様式の多様性への記述が分散的であるという2つの特徴は、むしろ「経済学批判」(*4)の方がある程度当てはまります。しかし前述したように冒頭の文章が多様性へと開かれたものになっていないため、「資本論」のような効果は発揮できていません。

注 8 柄谷行人は「マルクス その可能性の中心」の中でこう述べています。

マルクス主義を形成下のは、エンゲルスである。エンゲルスは、マルクスのテクストの文字通りの最初の読者であり、解説者だった。問題は、彼が、マルクスとは資質の違った、ある意味で有能な思想だったことにある。

「マルクス その可能性の中心」柄谷行人



マルクスとエンゲルスの著書を読んで程なく、2人が異質であると感じていた私にとって、柄谷行人のこの言葉は納得のいくものでした。柄谷行人の著書をその後読み進むようになるが、そのきっかけにはこの言葉への信頼があったと云える。

「マルクス その可能性の中心」柄谷行人講談社 1990.7.10. 第1刷発行、1995.1.25. 第11刷発行 初出:「マルクスその可能性の中心」 群像1974年3月号〜8月号

注9 レーニンの「国家と革命」(*7)はマルクスとエンゲルスの著書からの膨大な数の引用によって成り立っています。数えてみると、エンゲルスからの引用およそ 247行、マルクスからの引用およそ 138行、共著からの引用およそ 12行でした。日本語の翻訳から私が手で数えたのですから、正確な比率とは云えませんが、それにしてもエンゲルスからの引用が随分と多いように思います。マルクスの文章は、それを補足するために用いられているように私には思えます。マルクスとエンゲルスを別個の思想家と捉えると、マルクス-レーニン主義というよりも、エンゲルス-レーニン主義の方がふさわしい呼び名に思えます。

「国家と革命」の骨子である”プロレタリアートによる権力の奪取・国有化・国家の止揚と死滅”は、「国家と革命」で引用されているエンゲルスの「反デューリング論」の中に示されています。多岐にわたる「反デューリング論」をもとに科学的社会主義についてまとめた「空想から科学へ-社会主義の発展-」(*8)の次のような言葉 (反デューリング論にも載っている)は、レーニンの「国家と革命」が依拠した思想を端的に表していると思います。

プロレタリアートは国家権力を掌握して、生産手段を、まず国有に転化させる。だが、それと共に、プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自己を廃棄※し、そしてそうすることによって、全ての階級差別と階級対立とを廃棄し、それとともにまた国家としての国家を廃棄する。

「空想から科学へ-社会主義の発展-」水田洋訳 講談社(*8)


※ 上記の引用中の「廃棄」は、「ワイド版世界の大思想エンゲルス」所収「空想より科学への社会主義の発展」(川口武彦訳)(*9)では「止揚」と訳されています。

もはや抑圧しておくべき社会階級がなくなれば、そして、階級支配とともに、これまでの生産の無政府状態にもとづく個体生存のための闘争とともに、そこからでてくる衝突と乱暴もまた、除去されるならば、ひとつの特別の抑圧権力すなわち国家を必要とした、抑圧すべきものは、もはや存在しないのである。

「空想から科学へ-社会主義の発展-」水田洋訳 講談社(*8)


国家は、「廃止」されるのではなく、それは死滅するのだ。

「空想から科学へ-社会主義の発展-」水田洋訳 講談社(*8)



とはいえ、エンゲルスとレーニンの思想も同じものではありません。レーニンは自身の暴力革命の思想を述べるために、エンゲルスとマルクスを彼流に解釈したといえます。

「国家と革命」の中の「資本論」からと思われる言葉は、「収奪者の収奪」の一言のみです。

引用文献


*1 「資本論 1」[電書籍版]  向坂逸郎訳 岩波書店 2017.11.16.発行、底本: 岩波文庫 マルクス 資本論1 2015.4.15.60刷発行
著書 マルクス 、編者 エンゲルス 1867年

*2 「資本論 」第一巻第一分冊 新日本出版社 訳者 資本論翻訳委員会 監修: 社会科学研究所 [翻訳者:種瀬茂(序文)、平井規之(第一章から第三章)、編集・統一者 岡崎博之 宇佐美誠次郎 土屋保男 杉本俊朗)
初版:1982.11.15.  第37刷 2003.5.10.
著書 カール・マルクス 1867年 (主たる底本: ドイツ語エンゲルス版)


*3 『資本論』第一章「商品のディアレクティーク」
丹野正 人文社会論叢. 社会科学篇,2003

*4「経済学批判」マルクス 武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳 岩波書店 1956.5.25.第1冊発行、1983.1.20.第29冊発行 底本:Karl Marx,  „Zur Kritik der politischen Ökonomie“ Erstes Heft, Volksausgabe, besorgt von Marx-Engels-Lenin-Institut, Moskau, 1934初出:1859年、ベルリンのフランツ・ドゥンカー書店

*5  マルクス 資本論草稿集 ⑦経済学批判(1861−1863年草稿) 第四分冊 大月書店 1982.9.30. 第1刷発行底本:ソ連邦共産党中央委員会附属マルクス=レーニン主義研究所・ドイツ社会主義統一党中央委員会附属マルクス=レーニン主義研究所編『カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルス全集(MFGA)』、第二部「『資本論』と準備労作」、第三巻「カール・マルクス経済学批判(1861〜1863年草稿)」、第四分冊、ベルリン、1979年

*6 「資本論 第一部草稿 −直接的生産過程の書結果−」マルクス 森田成也訳光文社 2016.12.16.発行(電子書籍)底本:Marx/Engels Gesamtausgabe (MEGA), Zweite Abteilung: "Das Kapital" und Vorarbeiten, Band 4, Karl Marx Ökonomische Manuscripte 1863-1867, Dietz Verlag, Berlin, 1988."Resultate Des Unmittelbaren Productionsprocesses" Karl Marx1863-64

*7 「国家と革命」レーニン 宇高基輔訳 岩波書店 1957.11.25.第1刷発行、1992.12.5. 第40刷発行原書 1917年 "ГOCYДAPCTBO  И  PEBOЛЮЦИЯ" /  B. И.Лeнин

*8 「空想から科学へ-社会主義の発展-」エンゲルス 水田洋 講談社(電子書籍)底本:講談社文庫 1974.9.発行原典: 「Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft」Friedrich Engels

*9 「ワイド版 世界の大思想Ⅲ-05 エンゲルス 社会・哲学論集」 河出書房新社 2013.9.30.発行(電子書籍)訳者代表 岡崎次郎底本:「ワイド版 世界の大思想Ⅲ-05 エンゲルス 社会・哲学論集」  2005.5.10.発行所収「空想より科学への社会主義の発展」(川口武彦訳)原典: 「Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft」Friedrich Engels

これまでの論文とエッセイ



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