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聖書と信

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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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#十字架

非常識で迷惑な大人たちの姿

非常識で迷惑な大人たちの姿

電車の中で騒ぐ人間は嫌いである。他人に思考をさせないからである。耳栓でもしているという自衛方法もあるが、誰もが耳栓をもたなければならない、という考えは間違っていると思う。大きな声で騒ぐ者は、他人をなんとも思っていない。
 
お年寄りの中には、ある程度仕方がないことがある。耳が遠いために、声もいくらか大きくならないと会話すらできないのだ。また、子どもが泣くことについては、私は全く何も感じない。子ども

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マタイ受難曲

マタイ受難曲

塾業界に(と大きく出たね)、正月休みというものはない。いや、一応休暇はあるが、ゆっくりできないし、「あけましておめでとうございます」という挨拶はない。その代わり、春休みは一息つかせてもらうことになる。てれっと休みが続く。
 
2023年は、その週が「受難週」だった。殆ど家でごろごろしている毎日なので、教会が連日中継をしてくださったのは、とても嬉しかった。殊に本日は、午後3時に合わせてのひとときが与

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受難週の祈り

受難週の祈り

十字架を巡っては、様々に思うことがある。深く感ずるところがない、というのは、キリスト者としてありえないことであろう。
 
年がら年中、十字架のメッセージでもよいくらいだ。だが、福音はそればかり口にしていてよいわけがない。パウロはどちらかというと、そこに焦点を当てていたのであろうが、それはパウロが、イエスの地上生涯とその旅、宣教などについて、直に知るところがなかったことにも関係すると想像される。
 

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イエスとパウロの奇蹟

イエスとパウロの奇蹟

神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い。
 
怒号の群衆が、死に瀕した者に言葉の鞭を打つ。イエスが神なら、降りてくるくらいは簡単なことのはず。ひとつの理屈が通っている。だが、イエスは降りなかった。降りられなかった。神の子である故に、である。キリスト者ならば、神を弁護することとは無関係に、その意味を知っている。それが信仰というものである。
 
だから、それをここで言葉で説明しようとは思わない。何

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正解は定められない中で

正解は定められない中で

物事には、よい面もあるが、悪い面もある。それが人間世界での法則だとしよう。では、もしもすべてにわたりよいというものがあったとしたら、どうだろうか。あるいは、人間はそういうものを望むのではないだろうか。
 
そこに、神についての、ひとつの規定が見えてくる。すべてにわたりよいもの、それが神だ、と。
 
そんな馬鹿な。この世の中を見たまえ。なにもかもよいなどということがありうるだろうか。ヴォルテールの『

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シン・ウルトラマン

シン・ウルトラマン

誕生日を結婚記念日としてくれたのは、妻である。小さな民家のつくりの教会での結婚式の日、梅雨の最中にその日はカラリと晴れた。
 
ここのところ、毎年、その日か近くの日に、共に休みをとって、ランチに出かけることにしている。私の平日の休みが偶々この時期にあることから、その日に合わせて都合をつけてくれる妻に、ひたすら感謝である。
 
今年はその日、妻の見たかった映画を観る朝から始まった。「シン・ウルトラマ

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『説教 十字架上の七つの言葉』(平野克己・キリスト新聞社)

『説教 十字架上の七つの言葉』(平野克己・キリスト新聞社)

ようやく手に入ったのが、5月。3月の発行以来、待ち焦がれていた。
 
副題に「イエスの叫びに教会は建つ」とあるが、すべて看板に偽りなしであった。加藤常昭先生の弟子として、日本の説教をいま背負っているような人の、実に意外なことだが、初の説教集である。これを期待しないで、何を期待すればよいのであろうか。
 
時は2020年、イースターを前にした2か月の間。覚えておいでだろうか、新型コロナウイルス感染症

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『ベツレヘムの星』(宮田光雄・新教出版社)

『ベツレヘムの星』(宮田光雄・新教出版社)

古書店で偶然に見つけ、宮田光雄さんの名を見て、これは知らなかったと思い、購入した。「聖書の信仰」の著作集は全部読ませて戴いたが、本書はエッセイによる辞典のようで、魅力に思えたのだ。サブタイトルは「聖書的象徴による黙想」とある。クリスマスの黙想と称した序章の中で、そのクリスマスの記事の中に出てくる星だの光だのが、聖書では何かを象徴しているに違いない、という辺りから、聖書を象徴として読み解いていくこと

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アドベントを迎えて

アドベントを迎えて

伝統的に「待降節」という語が温かい。12月というよりも、クリスマスまでのひとときという意味で迎えてもよいかと思う。クリスマス礼拝までの四回の礼拝は、クリスマスを待つという意味を濃くしたプログラムや説教を、教会は用意するのが普通である。「アドベント」は「アドベンチャー」という語にも関係する語で、あるところに向かってやってくる、到着する、そうした意味合いをもつ言葉になる。「アドベンチャー」だと、未来の

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一切関係がありません

一切関係がありません

トイレの香りみたい。
いやいや、それは本物のキンモクセイだってば。
 
確かに、あるある。ぬいぐるみみたいに可愛い。
いや違う、本物があってこそのぬいぐるみのはず。
 
本当にあったのか、「教会でもクリスマスをするんですね」という逸話が語られることがある。これはどうやら、三遊亭円右の「クリスマス」という落語で広まったネタであるらしい。子どもたちが歩きながらそんな会話をする場面が最初のほうで出てくる

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教会は敷居が高い?

教会は敷居が高い?

以前SNSで、キリスト教関係の事業のPRがあった。「教会は敷居が高いと思われていますが……」のような言い回し。個人が言葉遣いを誤っていても別にそう干渉はしないが、事業となると、言葉の間違いは信頼を失い利益に差し支えるかもしれない。ちょっとお節介をした。幸い、ご理解を戴いた。
 
ご説明の必要はないだろうが、いまなお誤って用いられることがあるから念のため記しておくと、「敷居が高い」という言葉は、「不

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