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パレスチナとイスラエルとの間で続く暴力の応酬に迫ったThe Israeli–Palestinian Conflict(2008)の紹介

イスラエル人とパレスチナ人の対立には歴史があり、オスマン帝国の時代にまでさかのぼることができます。パレスチナで伝統的に農業を基盤としていたアラブ人の社会は、オスマン帝国が近代化の一環として始めた土地改革によって大きく動揺しました。土地の問題は1880年代にユダヤ人の組織的な入植が始まったことで一層複雑なものとなり、それは終わりの見えない戦いに拡大していきました。Milton-Edwards氏の『イスラエル・パレスチナ紛争(The Israeli–Palestinian Conflict)』は、この紛争の展開を大きな視野で追跡している概説書であり、この分野の基本文献の一つといえる著作だと思います。

Milton-Edwards, B. (2008).  The Israeli-Palestinian Conflict: A People's War, London: Routledge.

1839年から1876年にかけてオスマン帝国は西欧式の近代化を目指し、タンジマートと呼ばれる改革を推し進めました。この改革にはさまざまな要素がありましたが、その一つに土地の権利に関する法制度の見直しが含まれていました。それまでのパレスチナの農村共同体では、個人が土地を所有できなかったのですが、タンジマートの影響で個人が私有地を所有できる法制度が導入されました。このため、慣習的な土地利用の秩序が脅かされる事態となり、氏族や部族の指導者の間で不満が高まりました(Milton-Edwards 2008: 11)。

この土地問題は、ユダヤ人の組織的な入植が本格化する1880年代から民族問題の側面を持つようになりました。当時、ヨーロッパ各国で民族的に迫害を受けていたユダヤ人の間では、宗教上の聖地があるパレスチナへ集団的に移住し、そこに新しい国家を建設することを構想するシオニズムという運動が起きていました(Ibid.: 13)。オスマン帝国の当局は地元の理解を得ることなくユダヤ人入植者に土地売却を許可したため、各地で土地利用のあり方をめぐる紛争が発生し、パレスチナ人の間で反シオニズム運動の機運を高めることに繋がりました(Ibid.: 20)。

第一次世界大戦(1914~1918)ではドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと敵対しましたが、国内ではアラブ人の反乱にも悩まされました。このアラブ人の反乱はイギリスも戦略上の理由から支援し、戦後は独立を承認することを約束していましたが、これは表向きの立場でしかなく、戦争が終わった後でパレスチナはイギリスの委任統治領とされることが一方的に決められました。1917年11月のイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアの方針(バルフォア宣言を参照)に基づいてシオニズムを支持する姿勢であることも明らかになったため、パレスチナでは地元の利害を代表する政治団体が続々と組織されました(Ibid.: 26)。政治指導者のアミーン・アル=フサイニー(Amin al-Husseini)エヅツ・アルディーン・アル・カッサム(Izz ad-Din al-Qassam)は特に大きな勢力を組織化した指導者であり、イギリスに対して実力の行使も辞さない強硬な路線をとりました。ユダヤ人入植者も共同体の防衛を理由に武装化を進め、パレスチナの社会では緊張が高まりました。

1936年4月、アル・カッサムの武装勢力が2人のユダヤ人を殺害し、報復としてユダヤ人の武装勢力もアラブ人2人を殺害したことをきっかけとして、パレスチナで大規模な反乱が起こりました(パレスチナ・アラブの反乱)。現地のイギリス当局は事態の急変に際して非常事態を宣言し、治安の回復に努めましたが、抑え込むことは極めて困難な状況でした(Ibid.: 44)。現地調査に派遣されたウィリアム・ピールなどは1937年に報告書を作成し、パレスチナにおけるイギリスの委任統治を終わらせ、ユダヤ人とアラブ人の領域交換と人口移動でパレスチナを分割することを提案しましたが、これは双方の当事者から拒否されました(Ibid.: 47)。イギリスは1939年までにアラブ人の反乱を鎮圧しましたが、これ以上の流血を避けるため、妥協的な態度をとるようになりました。シオニズムの目標は独立国家を建設することであったため、一部の勢力はイギリスを敵視し、武力闘争を展開する者まで現れました。ヨーロッパで第二次世界大戦(1939~1945)が始まったとき、パレスチナにおけるイギリスの統治は持続困難な状況にあったといえます。

先に述べた指導者の一人アル・フサイニーは戦時中にドイツの指導者アドルフ・ヒトラーに接近しましたが、これはパレスチナの立場を教化する上であまり政治的に有効ではありませんでした(Ibid.: 57)。むしろ、アドルフ・ヒトラーの反ユダヤ主義イデオロギーに基づくホロコーストは、ユダヤ人に対する国際的支持を強化することに大きく寄与しました(Ibid.: 57-8)。第二次世界大戦の結果、財政的に大きな打撃を受けたイギリスは、パレスチナの行政や治安にかかる経費を負担し続けることができなくなり、1947年に問題解決を国際連合パレスチナ特別委員会(UNSCOP)に引き渡すことを決定しました(Ibid.: 61)。

この委員会ではアラブ人とユダヤ人の代表者から意見を聞き取り、現地調査を行った上で、領域を分割し、2か国の独立国家を形成することでしか問題の解決は望めないという立場に基づいて勧告をまとめました(Ibid.)。1947年11月29日、国際連合の総会はイギリスの委任統治を正式に終了させた上で、エルサレム特別区には例外的な地位を与えつつも、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に分割するという内容の決議を採択しました(パレスチナ分割決議)。

この決議にアメリカやソ連は支持を与えましたが、エジプト、イラン、イラク、レバノン、シリア、サウジアラビア、イエメンなど複数の中東諸国が反対の立場をとりました。その理由としては、パレスチナの社会で人口面で多数を占めるアラブ人の意向が反映されておらず、彼らの意向を無視する形でパレスチナ領域を分割することには法的にも問題があるとされていました(Ibid.: 62)。

確かにユダヤ人の入植者が所有した土地の面積は全体の8%程度にすぎず、パレスチナ委任統治領の55%をユダヤ人国家の領土としたことは、シオニズムの外交的な勝利といえるものであり、ユダヤ人入植者の間ではおおむね肯定的に受け入れられていました(Ibid.)。しかし、この決議で衝突が起こることは避けがたい状況となり、パレスチナでは民間人を巻き込む広範な暴力の応酬が発生しました。

1948年5月14日にイギリスは予定通りパレスチナから撤退し、イスラエルは建国宣言を発しましたが、イスラエル建国に反対するレバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトがイスラエルとの戦争状態に入り、第一次中東戦争(1948~1949)が勃発しました。この戦争の結果、およそ70万人のパレスチナ人が国外に逃れることを余儀なくされたと見積もられています(Ibid.: 70)。

著者は、パレスチナ難民問題の研究動向を注意深く取り上げていますが、これはパレスチナからアラブ人を締め出した後で、イスラエルが土地を取得したことが計画的な措置であったのかについて、今でも論争が続いているためです。第一次中東戦争とそれに続くパレスチナ人の追放に関して、イスラエルの歴史学者ベニー・モリスが発表した『パレスチナ難民問題の誕生(The Birth of the Palestinian Refugee Problem)』(1987)は、イスラエルが非武装のパレスチナの民間人に対して戦争犯罪と見なしうる虐殺を行ったという評価を示すものでした(Ibid.: 71-2)。これはイスラエル側の史料に基づき、従来のイスラエルの公式見解に修正を迫る研究成果でした。

ただし、モリスの研究でもパレスチナ人が自分の土地を追い出されたことまでを認めたわけではありませんでした。土地の権利それ自体が不当であるということは、その後でイスラエルが無人の土地を法的に取得したことの根拠が揺らぐことになるためです。マイケル・フィッシュバックは『徴収の記録(Records of dispossession)』(2003)でこの点に関するモリスの議論を取り上げており、パレスチナ人の追放がイスラエルの計画ではなく、第一次中東戦争の結果として意図しない形で発生した事態だと語ることによって、この問題に対するイスラエルの責任を免じる「新しい神話」を作ったと批判しています(Ibid.: 70)。こうした論争から伺われるように、「紛争の歴史的な起源と責任に関して合意できるような、双方の冷静かつ正確な共通事項が見出されることは、まれである」と著者は述べています(Ibid.: 73)。

第一次中東戦争は多くのパレスチナ難民を生み出しましたが、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、そして東エルサレムに残ったパレスチナ人がいました(Ibid.: 131)。内外のパレスチナ人を束ねる上で重要な役割を果たしたのがパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)の指導者ヤセル・アラファトでした。1967年の第三次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに決定的敗北を喫してから、パレスチナ側ではイスラエルから土地を取り戻すには、より積極的な直接行動が必要であるという声が高まっていましたが、アラファトはイスラエルに対するゲリラ活動を強化する方針を採用しました(Ibid.: 132-3)。

イスラエルに対する攻撃を加えるにあたって、パレスチナ解放機構はヨルダンにあった大規模なパレスチナ難民キャンプを拠点としていましたが、その拠点を脅威と見たヨルダン軍とのヨルダン内戦(1970)で敗北し、レバノンへ拠点を移さなければなりませんでした(Ibid.: 134)。しかし、レバノンの拠点も1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻で維持できなくなり、チュニジアへと拠点を移しています(Ibid.)。パレスチナ解放機構の部隊はアルジェリア、スーダン、イエメンに点々と拠点を持っていましたが、いずれもイスラエルの領土からは遠く、ゲリラ活動を続けることは軍事的にも困難でした(Ibid.)。このような状況で1987年に突如として発生したのがインティファーダと呼ばれるパレスチナ民衆の蜂起でした。

インティファーダのきっかけとなったのは、1987年12月9日に起きたある交通事故でした。イスラエルは1960年代からパレスチナ人にイスラエルで出稼ぎを行うことを許可するようになり、その日も多くのパレスチナ人がバスでイスラエルまで出稼ぎに出かけていました。イスラエルの事業者はパレスチナ人を安価な労働力として使用するため、バスで通勤させていました。このバスが交通事故を起こし、複数のパレスチナ人労働者が死亡したことが契機となって、イスラエルへの不平不満が噴出しました。このような経緯から生じた運動であったため、初期のインティファーダは必ずしも組織化された行動ではなく、アラファトにとっても予想外の出来事でした(Ibid.: 143)。

イスラエルはインティファーダの発生を受けて、すぐに武力による鎮圧を試みましたが、2年、3年と続くにつれて、そのような戦略を維持することは政治的に難しくなりました(Ibid.: 149)。イスラエルの国内では左派勢力からパレスチナとの和平を模索するため、パレスチナ解放機構の承認が提案されるようになり、イスラエル軍の兵士でも懲役刑に服することを覚悟した上で、軍務を拒否する者が出てきました(Ibid.)。

1992年にイスラエルで政権を樹立したイツハク・ラビン首相は、和平のための交渉に乗り出し、アラファトとオスロ合意を締結しました(Ibid.: 153)。これはイスラエルとパレスチナ解放機構が相互に相手の存在を承認した画期的な合意であったといえますが、パレスチナではパレスチナ解放機構の和平をパレスチナ人への裏切りと非難するハマスとイスラム聖戦が台頭していました(Ibid.: 154)。ハマスとイスラム聖戦は、イスラエルの軍人だけでなく、民間人をも標的とした自爆テロを繰り返し実施し、パレスチナ解放機構よりも強硬な路線を打ち出し、支持を集めようとしました(Ibid.: 156)。オスロ合意に対する非難はイスラエルでも高まり、1995年にラビンは和平に反対するイスラエル人によって暗殺されるという事件が起こりました(Ibid.: 194)。

アメリカはイスラエルとパレスチナの和平を仲介し、オスロ合意の締結にも尽力しましたが、2001年にアルカイダが引き起こした同時多発テロ事件で大きな犠牲を出してからは、パレスチナ側が他の国際テロリスト集団と繋がっていることを疑うようになりました(Ibid.: 169)。アラファトは、自分たちがアルカイダと関連付けられることによって政治的に不利な立場に置かれることを懸念しましたが、実際に2000年代以降にパレスチナに対する欧米の同情的な世論は弱まっていきました(Ibid.: 170)。2006年にパレスチナの自治評議会選挙でイスラエルに対する攻撃を繰り返してきたハマスが過半数の議席を獲得したことにより、和平の希望はますます遠ざかってしまいました(Ibid.: 175)。

イスラエルとパレスチナの紛争の歴史は、2000年代で終わるわけではありません。戦いは今でも進行中であり、特に強硬路線をとるハマスはイスラエルとの武力闘争を展開し、2023年10月7日には大規模な武力紛争を引き起こしました(2023年パレスチナ・イスラエル紛争)。こうした出来事を理解するには、オスロ合意に至るまでにパレスチナで何が起きてきたのかを知ることが重要であると思います。

「イスラエル人とパレスチナ人の紛争は、現代の世界秩序を揺るがす永続的で解決が非常に困難なものの一つである。現在、イスラエル国と国家が欠如したパレスチナの民衆との間の「戦い」は、以前にも増して憎しみが募り、壊され、捻じれた風景の一部となっている。イスラエル人とパレスチナ人の関係は非常に複雑であるため、単純な説明、あるいは解決策は存在しない。単一の、または単純な説明が欠落しているために、この対立は他の人々に理解しにくいものになっている。紛争について考察し始めた人にとって、あまりにも多くの問いがあり、その答えは十分ではない。この本は、紛争の最も重要な特性を明らかにして、それらを分析する試みである」

(Ibid.: 2)

ここで著者も認めている通り、他の多くの戦争と同じように、この紛争も一つの視点で語り尽くせるものではありません。この著作はパレスチナの問題の見取り図を提供するものですが、その詳細に踏み込むためには同書の各章に配置された文献案内を利用するとよいと思います。2008年の著作であることに注意が必要ですが、年表も末尾にあるため資料としても使いやすい一冊だと思います。

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