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文献紹介 戦間期のドイツ軍は教育訓練をいかに改革したか?:The Path to Blitzkrieg(1999)の紹介

ドイツ軍は第一次世界大戦が終結してから第二次世界大戦が始まるまでの間に、さまざまな改革に取り組みました。ロバート・シティーノ(Robert Citino)の『電撃戦への道のり:1920年から1939年までのドイツ陸軍におけるドクトリンと訓練(The Path to Blitzkrieg: Doctrine and Training in the German Army, 1920-1939)』(1999)はこの戦間期におけるドクトリンの変化を教育訓練の視点から明らかにした研究であり、陸軍軍人ハンス・フォン・ゼークト(Johannes "Hans" Friedrich Leopold von Seeckt)の役割が特に重要だったことを指摘しています。この記事では、このゼークトの改革を中心に研究の成果を紹介したいと思います。

Citino, R. M. 2007(1999). The Path to Blitzkrieg: Doctrine and Training in the German Army, 1920-39. Stackpole Books.

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、ヴェルサイユ条約(1919)の規定によって、さまざまな軍備制限を課せられることになりました。例えば、ドイツ軍に所属する軍人の定数は10万名に制限されており、最低限の規模しか戦力を持つことができませんでした。ただ、ドイツで新たに成立したヴァイマル共和国の体制は政治的に安定しておらず、そのため政府は体制を維持するために軍部への依存を深めていました。このため、政府の干渉を受けることなく、軍隊は戦力の再建に取り組むことができました。

第一次世界大戦の後でドイツ軍の改革を最初に構想したのはヴィルヘルム・グレーナー参謀総長でした。彼は平時は小規模であるものの、将来の軍備の拡張の可能性を見据え、優れた能力を備えた軍隊を構築することを提案していました。この構想を実際に具体化したのは1920年に陸軍統帥部総司令官に就任したゼークトであり、彼は第一次世界大戦の教訓を踏まえ、機動性の発揮を重視するドクトリンの構築に取り組みました。

その最初の足掛かりだったのが1921年に発行された教範『諸職種連合の指揮および戦闘』であり、これは重砲、航空機、戦車の保有がヴェルサイユ条約で制限される中で、歩兵と砲兵を緊密に連係させ、指揮官の統率を改善し、「機動性の向上、訓練の改善、地形や夜陰を巧妙に利用すること」によって、優れた戦闘力を発揮する部隊の育成を目指す内容でした。

この改革はその後も継続的に行われており、1921年には教範『小銃分隊の訓練』を発行し、1922年には『歩兵訓練規則』を発行し、歩兵戦闘に関する訓練内容の近代化を図っています。『小銃分隊の訓練』では分隊は歩兵戦闘で運用される最小の単位部隊であり、戦闘間に指揮官が自分の号令で動かすことが可能な唯一の部隊であるとして、指揮官が統率力を発揮することの意義が強調されていました。

指揮官は職務遂行に必要な軍事知識を習得しているだけでなく、部下を感化させる道徳的資質を備えており、危険な状況であっても冷静さを保てなければなりませんでした。『歩兵訓練規則』では、歩兵中隊を基本とした歩兵部隊の編成と運用が規定され、他のすべての職種部隊の戦術的任務は歩兵戦闘を支援することだと規定し、諸職種連合の訓練が徹底されなければならないと規定しました。

著者は、ゼークトが訓練を改善するだけでなく、演習のやり方も細かく見直していたことも調査しています。ゼークトは改革の効果を見極めながら段階的に修正を続けていました。例えば1921年の演習を見たゼークトは、前もって決まった射撃陣地に砲兵部隊を拘置しておくべきではなく、状況の変化に応じて柔軟に運用できるような予備を確保しておくべきだと指摘していました。ところが、1922年の演習では砲兵部隊が射撃陣地に進出するまでに時間がかかりすぎたので、歩兵部隊が必要な時機に火力支援を受けることができない事態が生じていることが指摘されました。

また、1924年の演習の評価では、訓練が改善され、諸職種連合に関する教育も充実したとゼークトは肯定的に評価していますが、演習で決まりきったシナリオに基づいて部隊が動くだけでは、部隊の士気が振るわないことを問題として提起しており、指揮官が自由に意思決定できる余地を残した自由統裁を提案しています。

このように、ゼークトは演習の成果を詳細に検討し、絶えずその方法から教訓を抽出して次の演習に活かし、また演習のやり方も修正していました。演習統裁の方法に関する規則を初めて発行したのは1921年5月のことでしたが、1923年、1924年と改訂が繰り返されました。演習に参加した部隊に実戦の印象を与えることは極めて重要な問題だとされており、非現実的な状況が発生することを防ぐため、統裁部の要員には知識と経験に優れた士官や下士官が選抜されていました。彼らは演習参加部隊と行動を共にし、電話や伝令で情報を交換しながら状況を付与していました。

「いずれの部隊で死亡者、負傷者、捕虜が出たのかを定めるのは統裁部の責任だった。すべての部隊は降伏することを不名誉なことと見なすように訓練された。部隊が捕虜となった場合、『統裁部は必ずその部隊について調査し、その部隊が敵中を突破して交戦する可能性が少しでもなかったのか確認しなければなららない』とされていた。統裁部は部隊にその調査結果を知らせることになっていた」

(p. 108)

統裁部は演習で使用する状況の現実性を高めるために、攻撃部隊の状態、地形や気象、敵の航空偵察の影響、防空のための措置、攻撃部隊と防御部隊の動作、諸職種連合、通信運用などの要素を考慮して攻撃の結果を判定していました。統裁部が演習中の武器の効果を判断する参考資料として、詳細な定量的基準も作成されました。例えば、歩兵が装備する小銃や軽機関銃の有効射程は1,200メートルと定義されており、800メートルまでならば空間に対する目標の密度に応じた損害を与えることが可能とされていました。こうした統裁方法の改善を積み重ねることによって、ドイツ軍では実際的な教育訓練が行われるように促されていました。

同時代の外国の観察者は、このようなドイツ軍の演習統裁のやり方に対して強い印象を受けていたことが示されています。アメリカ陸軍からドイツに駐在武官として派遣されたエドワード・カーペンター大佐は、ゼークトの改革の成果をドイツ軍の演習で目撃し、演習参加部隊に対する要求の高さに衝撃を受けています。本国に送った彼の報告でドイツ軍の士官は「不確実さにおいて指揮をとる」などの言葉を使っていたことが記述されており、それこそがこの演習の目的であること、特定の作戦上、戦術上の問題を解決すること自体は演習で重視されていなかったと説明されていました(Ibid.: 184)。

この著作は、軍隊が教育訓練と演習統裁を改善する方法について多くの示唆を与えてくれています。その取り組みが短期的なものではなく、長期的なものであったからこそ、組織全体の運用効率を向上させることができたことが分かります。ドイツ軍が第二次世界大戦の初期段階において優れた能力を発揮できたのは、こうした教育訓練で鍛えられた軍人が集積されていたことによるところが大きかった思います。

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