見出し画像

ベトナム戦争で米空軍はどのように戦術を刷新したのか? The Air Force Way of War(2015)の紹介

1972年12月18日、アメリカ軍は100機を超えるB-52爆撃機を用いたラインバッカー2作戦を開始し、北ベトナムのハノイとハイフォンに対して爆撃を加えました。この作戦は12月29日まで続きましたが、北ベトナム軍は激しく抵抗し、アメリカ軍は予想を上回る損失を被りました。

このような経験を踏まえ、アメリカ空軍は組織や運用を抜本的に見直す必要性を認識するようになりましたが、その道のりは平坦ではありませんでした。詳しい経緯についてはBrian D. Laslieの著作『空軍の戦い方:ベトナム戦争以降のアメリカの戦術と訓練(The Air Force Way of War: U.S. Tactics and Training after Vietnam)』(2015)で詳しく論じられています。

Laslie, B. D. (2015). The Air Force way of war: US tactics and training after Vietnam. University Press of Kentucky.

アメリカ空軍の歴史において、ベトナム戦争は従来のドクトリンを見直す重大な転換点でした。このように主張しているのは著者だけではなく、2012年にT. Michael Moseley空軍大将も当時の空軍の内情を振り返り、ベトナム戦争によって航空戦の準備が不足していたことが明らかになったなどと述べています。実際、戦術航空軍団は、1965年の1年だけで敵の戦闘機や地上の防空火器により63機の戦闘機を失いました。戦術航空軍団が編纂した戦史では、毎月25機の戦闘機F-4を製造できたので、損耗をすぐに埋めることができたと記されていますが、著者は厳しい適性が要求されるパイロットの損耗を補充することは、容易ではなかったことを指摘しています。

アメリカ空軍はベトナム戦争における戦闘で1,737機を失ったと集計しましたが、その多くを占めたのは「地上からの射撃」あるいは防空火器(anti-aircraft artillery, AAA)による損失で、このカテゴリーに1,443機の損失が分類されることになりました。ちなみに、地対空ミサイルによる損耗と認められたのは110機で、「その他の交戦」による損耗は117機、敵の戦闘機に撃墜された機体は67機でした。対航空戦でアメリカ空軍が認定した敵機の撃墜は137機であるため、空中戦における損害の交換比は必ずしも悪い数値ではありませんが、それでも大きな損失だったといえます。

著者は、アメリカ空軍の損害がこれほど大きなものになった根本的な要因として、アメリカ空軍の組織や運用が戦略爆撃(strategic bombing)のドクトリンに依拠していたことを挙げています。それまでの教育訓練では爆撃機部隊を中心に据え、戦闘機部隊は爆撃機部隊を護衛する運用が想定されていました。したがって、戦闘機のパイロットは敵の戦闘機と激しい空中戦になっても、どのように対処すべきなのか訓練されていませんでした。ベトナムでは実戦の合間に部隊の指揮官が訓練の不足を解消しようと努力を重ねました。飛行隊の指揮官は任務を終え、飛行場に帰投する直前に、航空燃料の残量を利用して、必ず5分から10分ほどの訓練を実施していました。訓練の内容は編隊飛行、地対空ミサイルからの回避、対航空戦での戦術や機動などでした。

しかし、このような現場の努力にも限界があり、一部の戦闘機部隊の指揮官は改善を要求するようになりました。1967年に戦闘機のF-4を機動性で劣るF-105に見せかけ、北ベトナムのMiG-21部隊を誘い出し、これを巧みに撃破した(ボロ作戦)戦術家として評価された第8戦闘機航空団司令のRobin Olds空軍大佐も、その一人でした。彼は従来のアメリカ空軍の訓練体系を見直し、戦闘機部隊の戦術能力を向上させることに特化した訓練の重要性を訴えていました。1968年に戦術航空軍団の司令に就任したWilliam W. Momyer空軍大将は、実態を把握するため、アフター・アクション・レポート(after action report, AAR)を通じて基地に戻ったパイロットから詳細なデータを集め始めました。航空戦の進行は分単位、あるいは秒単位であることもあって、いつ、何が起きたのかを再構成することは容易なことではありません。しかし、ほとんどのパイロットは驚くほど詳細に当時の状況を記憶していたので、複数のパイロットから聞き取りを行うことにより、詳細な報告書を作成できました。

このプロジェクトはRed Baronと呼ばれ、貴重な戦術的教訓を導き出しました。著者は、それを3点にまとめています。第一に、Red Baronの結果から、撃墜された大多数のアメリカ空軍のパイロットは敵機を認識していなかったか、あるいは敵機を認識するのが遅すぎたことが分かってきました。Mig-15、Mig-17、そしてMig-21は、いずれも機動性に優れており、アメリカ空軍のパイロットが気づかない経路で接近し、後方から迅速に攻撃していました。第二に、アメリカ空軍の戦闘機パイロットは、敵機を発見できたとしても、空中戦を遂行する技量が著しく欠如していることも確認されました。そして、第三に明らかになったのは、パイロットがあまりにも多くの業務を抱えているために、将来の任務を遂行するために必要な技能を習得することが困難になっているということでした。

しかし、空軍の首脳部の中には、このような問題があることを認めようとしない将官もいました。例えば、Bruce K. Holloway空軍大将は、1968年の論説でアメリカが北ベトナムに対して航空優勢を獲得しており、それが依然として揺らいでいないと主張し、パイロットが訓練不足であることを認めませんでした。このため、空軍の首脳部は、この問題を解決するために教育訓練を改革する必要を認めようとしませんでした。そのため、Momyerは自身の権限の範囲で対応することを余儀なくされ、航空団司令に訓練や運用の見直すように働きかけるところから始めました。

1972年、Momyerは戦術航空軍団の下で、現実的な訓練を追求するために、敵と同じような方法で味方と交戦する能力を有するアグレッサー飛行隊として第64飛行隊と、第65飛行隊を新編しました。この部隊には特に優秀なパイロットが集められ、アメリカ空軍のパイロットが実戦に近い形で訓練を積めるようにしました。Momyerが1973年に現役を退いてからも、この訓練はRobert J. Dixon空軍大将の下でさらに発展しました。1973年に中東で勃発した第4次中東戦争でイスラエル空軍の作戦がソ連製の防空火器に阻まれたことが明らかになったことも、アメリカ空軍における改革の後押しになったと著者は指摘しています。

アグレッサー飛行隊が参加した演習は1975年以降にネバダで定期的に実施されるようになり、11月29日から12月20日にかけて最初の演習が実施されました。この演習で使用されたシナリオには、敵の通信の妨害、地対空ミサイル基地に対する攻撃、アグレッサー飛行隊との空中戦、パイロットの捜索救難などが含まれており、ベトナム戦争で経験した状況が可能な限り再現されました。後にDixionは空軍がこの演習に積極的になり、またソ連からは非難されるようになったと述べています。1976年から戦略航空軍団も演習に参加しましたが、アグレッサー飛行隊は戦略航空軍団から参加した3機のB-52を容赦なく攻撃し、難なく撃墜の判定を獲得しました。演習が終了した後でB-52のパイロットに対して行われた聞き取り調査では、パイロットが司令部の指示にただ従うことばかりを考えていたことが明らかにされており、警戒が適切ではなかったことが浮き彫りとなっています。このような演習を通じてアメリカ空軍では着実に組織的学習が進められてきました。

この著作の記述は、ベトナム戦争が終わってからアメリカ空軍が取り組んだ改革の内容だけにとどまらず、1990年から1991年の湾岸戦争に与えた影響も考察されています。現代空軍の戦術に興味がある方だけでなく、組織が環境の変化に対応し、改革を推進するために、どのような努力を払わなければならないのかを考察する方にとっても興味深い事例研究です。

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。