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第一次世界大戦でドイツが冒した失敗を分析した『ドイツの戦略とヴェルダンへの道』(2007)の紹介

第一次世界大戦(1914年~1918年)で膨大な犠牲者が出た戦闘の一つにヴェルダンの戦い(1916年2月21日~12月19日)があります。ヴェルダンは、フランスの北東部に位置するムーズ県の都市で、フランス軍はそこに強固な防衛線を構成していました。

ドイツ陸軍の参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン(Erich von Falkenhayn)はゲリヒト作戦(Operation Gericht)でヴェルダンに対する大規模な攻撃を実施しましたが、数か月にわたる攻撃で決定的な戦果を得ることはできず、8月以降にフランス軍の反撃で後退を余儀なくされました。彼は敗北の責任をとって参謀総長を辞任しています。

ファルケンハインは戦後にドイツ敗北の責任を負わされた軍人としても知られており、さまざまな非難に晒されましたが、今では非難のほとんどに根拠がなかったこと、政治的な意図を持った攻撃であったことが明らかにされています。ファルケンハインが参謀総長として無能であったという見方は、ヴェルダンにおけるドイツ軍の敗北の原因を誤解させるものです。

歴史学者ロバート・フォーリー(Robert T. Foley)は著作『ドイツの戦略とヴェルダンへの道:エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと消耗の発達、1870-1916(German Strategy and the Path to Verdun: Erich Von Falkenhayn and the Development of Attrition, 1870-1916)』(2005)でファルケンハインの計画を史料から再構成し、ヴェルダンに対する攻撃を命じた軍事的な意図を探っています。

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この著作の主題はヴェルダンの戦いにおけるファルケンハインの戦略構想ですが、著者はその理論的根拠が1870年から1871年まで続いた普仏戦争の戦訓をめぐる議論にまでさかのぼることが可能であることを示しています。普仏戦争では、セダンの戦い(1870年9月)でプロイセン軍がフランス軍に決定的な勝利を収め、フランス皇帝ナポレオン三世(Napoléon III)を捕虜とすることにも成功したのですが、パリでは民衆が蜂起し、帝政が崩壊し、新たに樹立された臨時政府がプロイセンに対して抵抗を続けました。プロイセン軍はパリを攻囲して砲撃を加え、何とかフランスを降伏させましたが、これは戦争が予想を超えて長期化する危険をもたらす出来事であるという認識をもたらしました。

著名なプロイセン軍人だったコルマール・フォン・デア・ゴルツ(Colmar von der Golz)は将来の戦争が長期戦になる可能性を指摘し、参謀総長のヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth von Moltke)も国民が総動員される長期戦の危険を警告しましたが、著者が特に注目しているのが歴史学者ハンス・デルブリュック(Hans Delbrück)の議論です。デルブリュックは戦争の歴史を再検討し、戦闘を通じて敵の軍隊に決定的な一撃を加えるように軍隊を運用して戦争目的を達成する殲滅戦略と、長期間にわたって敵国を消耗させることによって戦争目的を達成する消耗戦略を区別する必要があると主張し、プロイセンのフリードリヒ二世(Friedrich II)オーストリア継承戦争(1740年~1748年)七年戦争(1756年~1763年)で駆使した戦略も殲滅戦略ではなく、消耗戦略として理解すべきだと主張しました。長期戦を想定した消耗戦略の思想はドイツ軍の内部で主流の地位を占めたわけではなく、著者の議論でファルケンハインがモルトケやデルブリュックの議論から影響を受けたことを裏付ける直接的な証拠は示されてはいませんが、著者は傍流の戦略思想がドイツ軍の内部に根強く残っていたことを想定しています。

1914年に第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツ軍は長期戦に陥る事態を避けるため、アルフレート・フォン・シュリーフェン(Alfred von Schlieffen)の戦略的包囲の構想を実行に移しました。これは短期間の攻勢で西部戦線のフランスを降伏させることにより、東部戦線のロシアに戦力を集中させることを可能にしようとする構想でしたが、ファルケンハインが参謀総長に就任した9月の時点で、この構想はすでに破綻していました。11月18日にファルケンハインはドイツが圧倒的な勝利を収めることが軍事的に不可能であることをテオバルト・フォン・ベスマン・ホルヴェーグ(Theobald von Bethmann Hollweg)首相に伝え、イギリスこそがドイツにとって最大の敵であるという自身の見解を表明しました。著者は、この日がヴェルダンの戦いへと至る最初の一歩だったと考えています。これ以降のドイツは、イギリスを主敵と見なした上で、フランスかロシアのどちらか一方に決定的な打撃を加えて単独講和を結び、段階的にイギリスを孤立させて終戦に持ち込もうとしました。

1915年、ファルケンハインはイギリスに対する無制限潜水艦戦を開始し、東部戦線ではドイツ軍とオーストリア軍の連合作戦を計画して、ロシア軍に攻勢をとりました(ゴルリッツ=タルヌフ攻勢)。この作戦でロシア軍は大きな後退を余儀なくされ、軍事的に打撃を受けたといえる状態でしたが(大撤退)、ドイツとの単独講和に応じることは頑なに拒みました。このため、戦略的観点から見れば、ファルケンハインが思い描いた成果を得ることができず、代替案としてフランスに目を向けるようになりました。1915年末にはヴェルダンを奪取し、フランス軍が無理な反撃に出れば、フランス軍を徹底的に消耗させ、単独講和に応じさせることができるはずだとファルケンハインは期待するようになっていました。著者はこの見通しがひどく甘いものであったと厳しく批判しています。

ドイツが国力を使い果たす前に戦争から抜け出すには、イギリス、フランス、ロシアの包囲網から抜け出さなければならなかったこと、そのためには特定の敵国に戦力を集中し、可能な限り早期に単独講和へ誘導する必要がありましたが、著者の見解によれば、ファルケンハインには敵の戦意を過小に評価する癖がありました。ファルケンハインはフランスの戦意が大したものではないと決めつけていました。西部戦線の要衝であるヴェルダンを守るため、フランス軍を消耗させれば、イギリス軍が準備不足の状態でドイツ軍の防御陣地を攻撃せざるを得なくなると予想していたことも問題でした。イギリス軍はソンムで予想を超える規模の攻勢を仕掛けてきたため(ソンムの戦い)、ファルケンハインはヴェルダンに戦力を集中させることが困難となりました。

また、著者はファルケンハインが作戦を実行に移す過程で、秘密主義を徹底したために、指揮下部隊との意思疎通に問題が生じていたことも指摘しています。ファルケンハインはヴェルダンを攻撃する際に、可能な限りドイツ軍の損耗を抑制することが重要だと考えていましたが、戦闘の激しさが増すにつれて、指揮官は損害を顧みずに攻撃を実施しました。著者はファルケンハインがドイツ軍の損害を実態より過小に評価していたことを示し、認識の共有が上手くいっていなかったことを裏付けています。ヴェルダンを流れるムーズ川の東岸を射界に収める制高地を占領できなかったこともドイツ軍にとっては痛手でした。ファルケンハインは計画の段階で制高地に砲兵を進出させ、長距離砲撃でフランス軍に大きな損害を与えることを考えていましたが、これは戦術的に実行することが困難な状況でした。

8月29日、ファルケンハインは作戦が失敗した責任をとり、参謀総長を辞しました。著者は、ファルケンハインが失脚したことは、ドイツ軍の戦略思想が消耗戦略から殲滅戦略に移行する契機となったと主張していますが、この点には大きな議論の余地が残っています。そもそも、ファルケンハインをはじめとするドイツの軍人は自身の戦略をデルブリュックの類型に沿って理解していたわけではなかったはずです。デルブリュックの議論を前提にしたことは、ファルケンハインの意図を解明する上で必ずしも最適ではなかったかもしれません。もし彼が特定の敵国に致命的な損害を与えた上で講和を結ぼうと模索していたならば、それは殲滅戦略と何が異なるのか説明が必要だったと思います。ただ、著者がファルケンハインの戦略は政治的に成功する見込みがほとんどなかったと主張していることについては、ほとんど異論が出ないのではないかと思います。

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