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小部隊戦術をロンメルの戦記で学ぶ『歩兵は攻撃する』の紹介

エルヴィン・ロンメル(1891~1944)は、第一次世界大戦、第二次世界大戦に従軍したドイツの陸軍軍人です。彼の著作『歩兵は攻撃する』(1937)は第一次世界大戦で歩兵科将校として部隊を率いた経験をもとにした戦記であり、小部隊戦術を学ぼうとする人にとって興味深い戦例集になっています。

エルヴィン・ロンメル『歩兵は攻撃する』浜野喬士訳、作品社、2015年

1 ベルギーおよび北フランスにおける機動戦、1914年
2 アルゴンヌの戦い、1915年
3 ヴォージュ山脈陣地戦、1916年
4 南東カルパチア山脈の戦い、1917年8月
5 トールミン攻撃会戦、1917年
6 タリアメント川、ピアーヴェ川追撃戦、1917年、18年

本書の叙述はドイツが第一次世界大戦で開戦を決断する前日の1914年7月31日から始まっています。当時、ロンメルが所属していたのはヴァインガルテンに駐屯していた第124歩兵連隊でした。長い行軍を経てロンメルは8月18日に初めてフランス軍の部隊との実戦を経験します。この戦いはブレド村の戦闘と呼ばれています。

この戦闘でロンメルは持ち前の決断力を遺憾なく発揮しています。先遣隊としてブレド村に向かったロンメル小隊は、深い霧に見舞われ、敵の散兵と接触したときに、上級部隊の中隊と連絡をとれない状況に陥りました。敵の抵抗は小規模だったことから、ロンメルはあくまでも敵の方向へ前進を続けることを優先し、ブレド村の方向へ前進するように小隊に命じました。

ブレド村にたどり着いたロンメルは4名の部下を引き連れ、自ら村内の偵察に出かけますが、村に突入した後で敵から猛烈な射撃を受け、そこで危うく命を落とすところでした。ロンメルはいったん退却し、小隊員と合流します。まずは中隊と連絡をとり、味方部隊と連携しながら攻撃したいところですが、中隊と連絡をとる目途が立ちません。あたりに味方がいるかどうかも分からない状況でした。そこでロンメルは小隊の総力を挙げてブレド村を攻撃すると決め、多くの犠牲を払いながら村内の敵を駆逐していきました。

戦闘中に発生した家屋の火災でロンメルは窒息しそうになりますが、そのまま敵部隊の後方へ小隊を進出させ、視界に優れた高地を確保することに成功しました。この一連の攻撃前進で敵の部隊は後退に追い込まれ、大隊は容易に前進できましたが、ロンメル自身が小隊の損耗が激しかったことを認めています。

読み方によっては、ロンメルの指揮官としての資質に疑問さえ抱くところかもしれませんが、最近の研究ではロンメルが当時のドイツ陸軍で採用されていた教範『歩兵操典(Exerzier-Reglement für die Infanterie; ExRfdI)』と『野外勤務令(Felddienst-Ordnung; FO)』に従っていたという解釈が示されています(Samuels 2017)。

Samuelsによれば、これらの教範は日露戦争(1904~1905)の調査研究の成果を踏まえたものであり、各部隊の指揮官は上官の命令の意図に基づいて主体的、自発的に行動する意義を強調していました。特に大隊長以下の部隊指揮官は常に部隊と行動を共にし、不測の事態が発生したとしても、「不作為、怠慢は手段の選択を間違えるよりも大きな間違いである」と明記していました。このような観点から見れば、ロンメルが選択している戦術行動は必ずしも型破りなものとは言えません。

その後、ロンメルはアルゴンヌの戦闘で中隊の指揮をとり、より大規模な部隊を運用する経験を積みました。その能力が認められ、1915年10月に新編されたヴュルテンベルク山岳兵大隊で中隊長になり、西部戦線から集められた経験豊富な200名の上官となりました。ロンメルはこの部隊で多くの戦果を上げましたが、特筆に値するのは1917年10月24日にイタリア戦線で始まったカポレットの戦いにおける働きです。

ロンメル自身の説明によれば、このときのドイツ軍の作戦の目的はイタリア軍の攻勢に耐え切れなくなったオーストリア軍を支援するため、「イタリア軍を[オーストリア=ハンガリー]帝国国境の向こうまで、もし可能であれば、さらにタリアメント川の向こうまで撃退すること」でした(312頁)。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は第14軍に編入されていました。第14軍の位置は下図で示す前線の南端にいる第2軍の北に陣取っていました。

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10月24日午前2時、降り続く雨の中で第14軍は攻勢作戦の準備を整え、砲兵の攻撃準備射撃を開始しました。ロンメルらは夜明けと同時に前進を開始し、午前8時までには最初の攻撃目標であるイタリア軍の陣地にたどり着きます。イタリア軍の陣地の背後に見えるのは巨大な山地であり、そこには第二線、第三線も待ち構えていることが予測されたため、迅速に山道を踏破していくことが戦術的に求められていました。

8時に突撃が開始されると、ヴュルテンベルク山岳兵大隊は素早く第一線を突破し、前進を開始します。まだ雨は降り続いていたので、足元の状態は悪く、ロンメル自身が途上で落石事故に見舞われ、挫傷を負いました。そのため、2名の兵の助けを借りなければ斜面を登ることがままならない状態だったことが語られています。

この時のロンメルはイタリア軍の陣地の編成を的確に見抜き、また土砂降りに紛れて敵の背後へ回り込んで奇襲することにより、銃声を立てることなく陣地を次々と攻略しています。その前進の速度にイタリア軍の兵士は対応することができなくなり、ロンメルらが尾根にたどり着く頃には敗走が始まりました。

しかし、敗走するイタリア軍は第二線の部隊まででした。その日の夜までにドイツ軍はイタリア軍の第三線に到達しましたが、その防御線を構成する要点の一つに1114高地と名付けられた高地がありました。そこを守るイタリア軍の部隊は高い戦闘力を有していると見られ、これを正面から攻撃するためには砲兵の火力が必要な状況でした。しかし、後方から砲兵が射撃陣地に移動し、砲撃を開始できるのは速くても10月25日の午前でした。つまり、それまでは攻撃前進が全面的に止まることになります。

ロンメルは、火力ではなく機動によってこの問題を解決できないか考えてみました。本書では「もしこの非常に時間を消費する砲撃支援を諦める場合、イタリア軍の第三陣地のうち、まだ攻撃を受けていない場所、すなわち1114高地の西および南東地点と、さらには1114高地の中心から1000メートルほど離れた地点にて、奇襲的に侵入を試みるという案が、考慮の対象になる」と述べられています(同上、338頁)。ロンメルはこの大胆な奇襲を実現するため、わずかな部隊を引き連れて10月25日に出発し、イタリア軍の視界を遮る地形地物を巧みに利用しながら戦術機動を実施しました。

ロンメルは途上で出会うイタリア軍の歩哨を捕虜にとりながら素早く前進していきました。当時、ロンメルは不用意に武器を使用することを禁じ、銃声で敵の注意を喚起することがないように厳命していました。1114高地で別の部隊が激戦を繰り広げている間に、ロンメルは1192高地の敵陣地を奇襲し、敵の抵抗を排除して、占領に至っています。イタリア軍の部隊は1114高地の方向に注意を向けており、ロンメルが隠密に行った戦術機動に気が付きませんでした。1192高地をロンメルに奪われていることに気が付いたイタリア軍は即座に激しい砲撃を加えましたが、ロンメルの部隊は陣地を守り通しました。

その後の戦闘の経過については省略しますが、本書で述べられたロンメルの経験を読み進めると、戦闘で任務を遂行するために、火力の集中が必ずしも絶対的な条件ではないことが示されています。火力はあくまでも勝利の一要素でしかありません。ロンメルの機動の最大の特徴は、常に警戒が緩んだ敵を奇襲することを徹底して追及することです。本書の戦闘の描写では、突然の奇襲を受けて、抵抗もできないまま捕虜になる敵兵が何度も登場しますが、これも奇襲の効果を具体的に記述したものとして興味深いと思います。

参考文献

Samuels, M. (2017). Erwin Rommel and German Military Doctrine, 1912–1940. War in History, 24(3), 308-335.

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