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【翻訳資料】プロイセン陸軍の将校教育を解説した「陸軍大学校」(1890)

スペンサー・ウィルキンソン(1853~1937)はイギリスでジャーナリストとして活躍し、1909年にオックスフォード大学で軍事史教授に就任した人物です。普仏戦争(1870~1871)でプロイセンがフランスに勝利を収めた要因の一つとして指揮官を補佐する幕僚が果たす役割に着目し、『軍隊の頭脳(The Brain of an Army)』(初版1890;改定版1895)では参謀本部の効率性を詳細に検討しています。

本稿では、ウィルキンソンが同書2部2章に置いた「陸軍大学校」を訳出しました。1810年に創設されたプロイセンの陸軍大学校は優れた資質を持つ将校に軍事学を学ばせる教育機関であり、家柄や身分ではなく、知識と能力に優れた将校を安定的に確保することを可能にしました。それまでにも、プロイセン軍の優れた戦闘効率については、イギリス陸軍軍人フレデリック・チャールズ・ラスセルズ・ラクソール男爵(Frederic Charles Lascelles Wraxall)の著作『列強の軍隊(The Armies of the Great Powers)』(1859)や、アメリカ陸軍軍人エモリー・アプトン(Emory Upton)の著作『アジアとヨーロッパの軍隊(The Armies of Europe and Asia)』(1878)で指摘されたことがありましたが、ウィルキンソンはより踏み込んだ分析を加え、陸軍大学校の軍事教育の特性を記述し、その教育成果が軍事的な効率の向上に寄与していると論じています。

軍隊の歴史、特に軍事教育制度の歴史に関心がある方に一読をおすすめしますが、軍事教育の制度的側面が議論の中心に置かれているので、どのような教官が、どのような教材を使い、どのように授業を展開していたのかといった運用的側面に関してはあまり詳しくないことを予めご了承ください。底本は1895年の改訂版を使用しています。


「陸軍大学校」

スペンサー・ウィルキンソン 著
武内和人 訳

 かつてフリードリヒ二世(在位1740~1786)が治めていたプロイセン王国は、フランス皇帝ナポレオン(在位1804~1815)との最初の戦いで敗北を喫してから今に至るまで、長期にわたる復興に取り組んできた。その中で注目すべきは、健全な制度、特に健全な教育で盤石な基盤を築く努力を払ったことである。ローレンツ・フォン・シュタイン(1815~1890)はプロイセンの制度全体を発展させ、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769~1859)は教養教育を発達させ、ゲオハルト・フォン・シャルンホルスト(1755~1813)は軍事教育を陸軍改革の礎とした。ベルリン大学は1810年10月15日に創立されたが、それと同じ日にドイツで最も偉大な軍事高等学校である陸軍士官学校が開校され、これが今日では陸軍大学校として知られている。この学校を創設したことはシャルンホルストの大きな功績だが、それは彼が教育活動で残した功績の大きさに比べれば些細なことである。

 シャルンホルストは1792年の戦闘に参加する前から『兵士便覧(Soldier's Pocket-Book)』を出版し、最近の戦例に基づいて野外要務の原則とその詳細を解説していた。1793年から1794年に初めて戦役の経験を積んだシャルンホルストは、ハノーヴァー軍に所属しながら、軍事教育を重要な問題に位置づける回顧録を執筆していた。そして、1801年にプロイセン軍の軍人となり、フリードリヒ二世が創設し、今でも開校されている学校で、下級将校向けの科目を担当する教官に任ぜられた。この学校でシャルンホルストは教育課程を再編し、教育内容を拡張し、重要な主題である戦術と戦略を「学校長」として上級課程の学生に教えた。シャルンホルストが1801年から1805年までに行った講義の資料は断片的な状態ではあるが、今でも保存されている。それらに目を通すと、シャルンホルストが軍務に必要とされる専門技術、専門科目を学生の頭に詰め込むだけでなく、戦争における作戦指導に学生の注意を向けさせた最初の人物であったことが分かる。シャルンホルストが1805年に起草した学校規則に示された教育体系では、非常に優れたプロイセンの軍事教育の特徴がさらに発達を遂げたことが見出される。シャルンホルストが育て上げた最高の学生はカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831)である。後年、クラウゼヴィッツは、この学校で学んだことが優れた著作を書くための知的な洞察と、あらゆる理論を引き出すための歴史的な方法を与えてくれた、と振り返った。ただ、すべての教育業務が1805年の動員によって突如として終了し、1806年の戦役でプロイセンは悲惨な敗北に見舞われた。

 1810年に創設された陸軍大学校は、選抜された将校に対し、高度な訓練を施すことを目的としていた。この学校に入校するためには、より高い階級へと進級することが確約されるだけの優れた能力がなければならなかった。つまり、陸軍大学校は将校に任官する準備として、若い候補生に専門的な訓練を行う下級の士官学校とは性格が異なっており、参謀本部と強い繋がりを持っていた。当時、参謀総長だったシャルンホルストは、若い将校の育成に大きな注意を払っており、最初期にこの学校の教授に任命された一人がクラウゼヴィッツであった。

 解放戦争(1813~1814)において陸軍大学校は閉校状態だったが、1815年に和平が成立した後で、改編されることなく再開した。ただし、陸軍大学校は参謀総長ではなく、教育総監の管轄下に置かれることになった。その後の長い平和な時代に、多くの優れた軍人が陸軍大学校で職務を果たした。クラウゼヴィッツは1818年から1830年に陸軍大学校の校長を務めた。偉大な地理学者であるカール・リッター(1779~1859)は、1820年から1859年まで教授の一人だった。1859年に陸軍大学校という学校名が正式に採用され、1872年に再び参謀総長の管轄下に戻された。

 現存する陸軍大学校の規定は最近のものだが、それはシャルンホルストが築いた基礎の上に少しずつ作り上げられた体系を成文化したものである。陸軍大学校の高い基準と強い権威は、長く途切れなかった伝統を表している。

 それは「服務規則(Order of Service)」と「陸軍大学校教則(Order of Teaching of the War Academy)」と呼ばれる2種の規則の中で具体化された。これらの明瞭に記された文書を読めば、この教育機関の活動が上手く説明されていることが分かるだろう。

 まず、「服務規則」は悲運なフリードリヒ・ヴィルヘルム四世(在位1840~1861)※の短い治世において得られた数少ない成果の一つであり、彼の署名がそこに残されている。文章はドイツ人の流儀に従って定義から始まっている。「陸軍大学校の目的は、各兵科の優れた多数の将校に発展的な軍事学の科目を学ばせ、それによって彼らの軍事知識を向上、拡大させるとともに、軍事的判断を明確かつ迅速にすることである」

※原文では「フリードリヒ皇帝」とあるが、プロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝に即位したのは1871年で、閣議決定により陸軍大学校が公式に王立の学校とされたのは1859年である。この年に王位にあったのはフリードリヒ・ヴィルヘルム四世であり、その称号はプロイセンの国王である。したがって、正確には「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と書くべきところだったのではないかと訳者は推測する。

 さらに「学生は、軍務に直ちに寄与する訓練と並行し、陸軍の要求に応じて、形式科学(訳注、数学、論理学など)の特定領域を深く学修し、1か国語、あるいは2か国語の現代外国語を話し、書くことができるように努力しなければならない」とも記されている。

 陸軍大学校は、科学的な活動、すなわち、教育と研究のための機関として、陸軍の参謀総長が管轄する。参謀総長には教官を任免し、入校する学生となる将校を選抜し、やむを得ない場合には学生を退校させ、そして時には入校していない将校に特定の教育課程に加わることを許可する権限がある。陸軍大学校の規律と管理は校長の責任であり、これに将官を充てる。校長は1名から2名の副校長と、参謀総長が委員を指名できる研究委員会に補佐される。研究委員会の任務は、教授が受け持つ担当科目の教育課程を承認することと、課程の最初と最後に行われる試験を実施することである。課程は3年間にわたって続くが、毎年の夏には3か月の長期休暇が認められている。学生は1年に1度の審査を受け、学業の勤勉さと品行の良さで引き続き在校できるかどうかが決まる。5年以上の軍歴があり、かつ大尉に進級して4年が経過していない将校であれば、陸軍大学校の入校試験を受験できる。

 また「入校試験の目的は、候補者の基本的な教養を学修しているか、陸軍大学校の講義に出席して、その内容を理解するために必要な知識を習得できているかどうかを確認することである。また、この試験では、候補者に判断力を判定し、今後の発達が望めない候補者を除外することをも目的としている」とある。試験の問題は単に知識を記憶しているだけでは回答できないものであり、明晰で、思慮深く、一貫性を持って意見を述べる能力を検査する必要がある。必須とされる軍事学の科目は、戦術の基礎と応用、武器の性質と構造、築城と測量である。普通学(訳注、軍事学以外の科目の総称)の科目としては、歴史、地理、数学、フランス語がある。応用戦術の論述試験は可能な限り単純明快なものでなければならない。その試験では候補者が何らかの決心を下し、その理由を説明すべき状況が問題として与えられる。さらに候補者は数か月前に発表された課題の一覧から一つを選択し、自宅でエッセイを書き上げ、前もって提出しておかなければならない。この課題は候補者の判断力と身に着けた一般教養の程度を検査することを意図しているので、エッセイはドイツ語またはフランス語のいずれかの言語で書かなければならない場合がある。そして、「校長は(研究委員会の審査によって)最も優れた成績の将校から、陸軍大学校への入校させる者を100名を超えない限度で選抜し、その名簿を参謀総長に提出する。参謀総長はその決定を各軍団長に通達し、軍団長はそれぞれ該当する将校に知らせる」と記されている。

 服務規則には、陸軍大学校で行われる教育から特定の実用的な内容を決して省略してはならないことが定められている。

「講義で解説した後で、学生は担当教授の指導の下で、ベルリンやシュパンダウにある練兵場、兵科学校、演習場、そしてシュパンダウ要塞を訪問する。学生は鉄道連隊の演習に参加し、鉄路で演習旅行を実施する」
「戦術、築城、輸送の科目では実習が行われる。1年目、2年目が過ぎると、それぞれの将校は休暇の一部を割いて、自身の兵科と異なる兵科の連隊で隊付教育を受ける。3年目の教育課程はいつも3週間の参謀旅行で締めくくられ、参謀要務に関する実践的な指導が行われる」

 服務規則では、教育の範囲と方法について、これ以上のことを定めておらず、詳細に関しては陸軍参謀総長の教育令で定めることになっている。

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