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地方政治の視点でベトナム戦争の特徴を捉えた War Comes to Long An(1972)の紹介

1945年8月に第二次世界大戦が終結したとき、それまで日本に支配されていた東南アジアのインドシナ半島ではベトナム革命が起こりました。この革命で成立したベトナム民主共和国(以下、北ベトナム)の国家主席と首相を兼任したのがベトナム独立同盟会の指導者ホー・チ・ミンです。彼は日本が進駐する前にインドシナ半島を支配していたフランスにベトナムの独立を受け入れるように要求を突き付けました。

外交努力が失敗に終わったため、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発し、北ベトナムとフランスの戦いが始まりました。8年にわたって熾烈な戦闘が続きましたが、1954年のディエンビエンフーの戦いで北ベトナムがフランスに軍事的な勝利を収め、フランスはインドシナ半島においてベトナム、カンボジア、ラオスの独立を承認しました。さらに、北緯17度線を境界としてベトナムを南北に区分し、ベトナム南部からベトナムが兵力を引き上げること、北ベトナム、カンボジア、ラオスの領土からフランスが兵力を引き上げることで合意しました(ジュネーヴ協定)。この協定では、戦後のベトナムの体制のあり方を問うための南北統一選挙も予定されていました。

このとき、ソ連をはじめとする共産主義勢力の封じ込めを世界各地で推進していたアメリカが北ベトナムに対抗し始めました。1955年にベトナム南部のベトナム共和国(以下、南ベトナム)で反共の路線をとるゴ・ディン・ジエム政権が発足したとき、アメリカ政府がこれを援助した背景には、インドシナ半島で共産主義勢力の拡大を防止する狙いがありました。ジエム政権は南ベトナムの国内で自身に抵抗する共産主義勢力を弾圧し、ジュネーヴ協定に盛り込まれた南北統一選挙を実施することを拒否しました。このため、南ベトナムの共産主義勢力は、1960年に南ベトナムのタイニン省南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front for South Vietnam, NLF)を立ち上げ、北ベトナム、ラオス、カンボジアの支援を受けながら(ホーチミン・ルート)、反政府活動を本格化させることになりました。

南ベトナム解放民族戦線が作戦を開始すると、南ベトナムは内戦状態に陥りました。ベトナム戦争は実質的に、この時点から始まったといえます。アメリカ軍は当初、南ベトナムの治安維持を支援するために小規模な軍事顧問団を派遣していたのですが、南ベトナムの治安状況が悪化するにつれて関与を深めていき、1963年までには4万名の兵力を南ベトナムに展開していました。1964年以降に南ベトナムに送られるアメリカ軍の兵力は18万名を超えています。

当時、現地で戦っていたアメリカ軍人の一人にジェフリー・レース(Jeffrey Race)陸軍少尉がいました。彼は1965年には通信科の将校として派遣されていたのですが、現地でベトナム語を習得し、1967年に軍務を離れ、独自に戦況の調査研究に従事するようになりました。1969年にハーバード大学に提出した博士論文をもとにした著作が『ロンアンに戦争が来た(War Comes to Long An)』であり、軍事学の分野で今日でも高い評価を受けている反乱の研究成果です。2010年に増補版が出ています。

Race, J. 2010(1972). War comes to Long An, Updated and Expanded: Revolutionary Conflict in a Vietnamese Province. Berkeley, University of California Press.

この研究が卓越していたのは、ベトナム戦争がどのように始まり、どのように状況が変化していったのかを解明する上で地方政治のダイナミクスが重要であることを明らかにしたことです。表題のロンアンとは南ベトナムの地方自治体の一つです。中国のチベット高原を源流とするメコン川の最下流に広がる三角州、メコン・デルタに位置しており、現在でも農業生産が盛んな地域です。

著者は、共産主義者が住民から幅広い支持を得ることに成功したモデル的な事例として、この地域の地方政治に注目しました。1965年にこの地域にアメリカ軍の部隊が展開する頃には、すでに実質的に勝負がついていたというのが彼の見方です。結論を先に述べると、ロンアンで成功を収めたのは、共産主義者が戦闘能力で優れていたためではなく、政治工作で優れていたためでした。ロンアンの農民の不平不満を巧みに利用し、支持基盤として組織化することができました。著作では1954年のジュネーヴ協定が締結された時期から始まり、1965年までを調査の対象としています。この期間にロンアンにおける反乱の過程を追跡するため、著者は現地調査で入手した南ベトナム解放民族戦線側の内部資料、現地で撮影した写真資料、さらにプロパガンダ・ポスターなどの内容を分析し、現地の政治状況を記述しています。

著者の過程追跡の成果の一部を紹介します。第2章で著者が面接した軍人のドゥオック(Mai Ngoc Duoc)は、かつてロンアンを支配した南ベトナムの地方政治家でした。ロンアン省という地方自治体の内部において、ドゥオックはジエム政権より強い影響力を持っていた上に、その禁欲的な姿勢から信頼されていましたが、ロンアンで共産主義勢力が拡大することを防ぐことはできませんでした。かつてドゥオックは1954年にクアンガイ省の省長として汚職の根絶に取り組み、ジエム大統領から高く評価されたことがありました。そのため、1957年にロンアン省の省長に任命され、現地の文民政府と軍事組織の両方を指揮することになったのですが、省民に実害を及ぼす汚職公務員が後を絶たなかったと証言しています。

著者が記録したドゥオックの証言となったのが、着任して3日が過ぎたとき、彼は私服で市場へ視察に出かけました。すると、ある店で公務員が拳銃を机の上に置きながら、昼食をとっていたのを見つけました。すぐにドゥオックは店主に話しかけ、詳しい事情を尋ねると、その男はもう2か月もその店で無銭飲食を繰り返しており、店主が支払いを要求すると黙って拳銃を取り出すので、黙認せざるを得なかったことが判明しました。その場でドゥオックはその男に支払いを済ませるように命じましたが、男はドゥオックのことを知らず、支払いも拒否しました。ドゥオックは役所に戻ると指揮下の部下全員に24時間以内にツケをすべて支払うように命令し、それが実行されなかった場合は家族を奴隷にすると脅したようです(Race 1972: 46)。ドゥオックは、その後もさまざまな汚職撲滅の取り組みを実施していますが、1961年に離任したときにも、およそ10%の公務員が不正を働いていたのではないかと自身で推計しています(Ibid.: 46-7)。

著者の調査結果から、ドゥオックが汚職の根絶を図る上で最大の問題だったのが人事であったことが読み取れます。というのも、ドゥオックがロンアンで行政活動を執行するために必要な人材は慢性的に不足していたのです。あまりにも多くの公務員が汚職に手を染めていたので、好ましくない人物であっても、何らかの業務を任せざるを得ませんでした。そのため、汚職公務員を革命勢力が活発な辺境に送り込む事例が多く、特定の地区に集中的に配置されることになりました。これは結果的にその地区で腐敗公務員の数を増やすことに繋がり、住民はますます政府に不満を募らせることになり、革命勢力が付け入る隙を大きくしてしまいました(Ibid.: 47)。ドゥオックは、自身の経験で腐敗した官吏を正しい道に導くことができた事例がなかったわけではないとしながらも、汚職を働くような人物にはサイゴンで有力者と血縁関係がある者や、交友関係がある者が少なくなく、完全に排除することが困難であったと述べています(p. 48)。また、汚職を働いた人物を排除できたとしても、次に送り込まれてきた人材が、別の場所で汚職を働いていた人物であったことも珍しくありませんでした。この傾向は1958年以降に悪化していたようです。

ロンアンで起きていたことは、南ベトナムの統治能力の低さをよく表していました。第4章の総括的分析によれば、共産主義者は当初から南ベトナムの農村部を支配することを重要な戦略目標と設定し、土地を持たない小作農民、あるいは小さな土地しか持たない貧農、中農に積極的に働きかけていました。彼らは社会の中で多数を占める集団であり、またほとんどが何らかの形で体制に不満を持っていました。著者は1959年までロンアンの革命運動では暴力行使に関して非常に慎重な姿勢がとられていたこと、住民に対する政治工作が優先されていたことを指摘し、その基盤があったからこそ1960年以降の武装闘争で毎年のように兵力を拡大できたと説明しています。著者は、南ベトナムがこのような政治状況を把握できておらず、南ベトナム解放民族戦線を外国の侵略者のように見なしていたので、何ら成果が得られない戦略を策定していたと論じています。

「また、政府高官によって用いられた「安全」の概念も重要な帰結をもたらした。この用語は常識的に考えられているように、特定の領域における敵の移動を物理的に防止することを意味していた。つまり、これは先に述べた戦術的な意味での安全という概念を指していたのである。さらに、政府の見解では共産主義者の「合法的」な立場と「非合法的」な立場を区別することができなかった。政府の戦略では「住民の保護」を提供すべきだったが、住民は攻撃を受けていたわけではなく、革命勢力から接触を受けていた。共産主義の戦略では、住民が政府から接触を受けているという問題を解決するため、たとえ接触されたとしても感化されないような免疫を持たせることを目的とした政策が用いられていた。このために、政府は住民と共産主義団体との接触を物理的に阻止しようとしてしまったのである。つまり、住民と接触する相対的に少数の政府関係者を保護するのではなく、交流する住民全部の安全を確保することを選択したのである」

(Race 1972: 153)

著者は、汚職の根絶が、南ベトナムの対反乱にとって極めて重大な問題であったにもかかわらず、その問題解決を回避して、軍事的アプローチに終始したことを批判しています。これはロバート・トンプソンが『共産主義の反乱を打倒する』(1966)で提唱された対反乱の基本原則ともよく合致しており、トンプソンも反乱軍を弱体化させるためには、いかに汚職公務員を行政活動から排除し、公平な行政サービスを提供できるかにかかっていると主張していました(冷戦期に対反乱戦略を編み出した『共産主義者の反乱を打倒する』(1966)の紹介)。著者の研究は、対反乱において軍事的アプローチに頼ることの限界を具体的、実証的に示す意義があったといえるでしょう。

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