第二次世界大戦で米軍は占領地行政の問題にどのように対応したのか?
国家が戦争を始める理由は、内外の政治状況によって多種多様です。領土獲得が戦争目的になる場合もあれば、他国に対する内政干渉が戦争目的となる場合もあります。つまり、敵軍の撃破それ自体が戦争目的ではない場合、戦略家は軍事的手段で得られた戦果を、政治的成功へと導くまでの道筋を見出さなければなりません。この際に重要な要素となるのが民事(civil affairs)です。
民事とは、軍隊が部外における民間の諸力を利用し、またこれを発展させることを目的とした軍隊による活動であり、被占領地域において軍政府が実施する行政活動は特に重要な民事として位置付けることができます。占領地行政は戦時下において作戦の進展に及ぼす影響も大きく、軍事的必要性に従わせることが原則としては求められます(メモ 軍隊が実施する民事(civil affairs)とは何を意味するか?)。
しかし、民事を軍事的必要性に従わせる意義が十分に理解されないことも歴史上しばしば起きています。アメリカ軍は第二次世界大戦で広大な地域で軍政府を設置し、民事要員を配置し、行政活動を遂行することになりましたが、民事のあり方をめぐって見解の相違が生じていました。
この歴史は1939年にドイツが第二次世界大戦が引き起こした直後から始まっています。アメリカ陸軍は戦争の準備を開始し、占領地行政に必要な民事要員の教育訓練を見据えた教範の整備に取り掛かりました。アメリカ陸軍の法務総監(Judge Advocate General)アレン・ガリオン(Allen W. Gullion)陸軍少将とその部下が作成した教範『軍政府(FM 27-5: Military Government)』と『陸戦規則(FM 27-10: The Rules of Land Warfare)』は民事の基本原則、組織編成、実施要領を定めたもので、1940年から1941年までほとんど需要がない教範でしたが、その後の民事要員の養成の基礎となるものでした。
ガリオン少将は教育訓練の拡充を働きかけるために、1941年9月に参謀本部に対して陸軍将校に民事訓練を施す体制を拡大させるように提言しましたが、これには参謀本部の内部から強い反対意見が起こりました。参謀本部では作戦部長を中心に陸軍の部隊を短期間で拡大させることを構想しており、民事の教育訓練に将校を割り当てる余裕はないと考えていました。まだ、この段階では民事訓練の必要性について共通の認識がありませんでした。
しかし、1941年12月に日本海軍の真珠湾攻撃が発生し、太平洋の島嶼部が次々と占領されてからは、民事訓練の必要性が以前にも増して高まりました。なぜなら、それら島嶼部をアメリカ軍が奪回した場合、現地の行政に多数の民事要員が必要になることが容易に予想されたためです。
ガリオン少将は1942年2月に軍政学校を新設することが認められ、民事訓練の体制を拡充し始めました。アメリカ陸軍が任務を遂行するために必要な民事要員の所要を見積ることが当初の課題でしたが、1918年に終結した第一次世界大戦でラインラントにアメリカ軍が進駐したとき、占領軍の0.1%に相当する213名の将校が民事要員に必要であったことが、当時の推計の基礎となりました。この数値を前提にした場合、アメリカ陸軍は400万名の戦力に対して4,000名の民事将校が必要になると見積もられました。
しかし、軍政学校は1年に訓練可能な将校が400名程度と見積られたので、上述した所要を満たすために10年もかかる計算でした。結局、陸軍は民事要員を自力で確保することは現実的ではないと判断し、部外の人員を民事要員とする方策を模索し始めました。これは陸軍だけでは手に負えない問題であったため、フランクリン・ルーズベルト大統領も巻き込む形で政府一体となり、民事要員の確保を目指すようになりました。ルーズベルト大統領の後押しがあったために、陸軍は文民を民事要員として採用し、所要の人員を確保する見通しを立てることができるようになりました。
しかし、軍政学校が動き始めると、大きな問題が発生しました。マスコミがこの陸軍の学校に注目し、「帝国主義の萌芽」というレッテルをつけて、扇動的な記事を書き始めたのです。陸軍省は直ちに報道を規制しました。ルーズベルト大統領は軍政学校を擁護する立場でしたが、後に意見を変え、戦地における民事でも、それは文民の職務でなければならないと主張するようになりました。これは軍政学校の存続にかかわる問題に発展し、陸軍長官のヘンリー・スティムソンは、1942年11月の閣議で軍政学校の目的を説明し、陸軍として終戦後に占領地を永続的に統治する意図を持っていないことに理解を求めています。その後も、アメリカでは戦時下における軍隊の民事のあり方について論争が続きました。
スティムソン陸軍長官が軍政学校を擁護していた1942年11月にアメリカ軍はイギリス軍と共同で北アフリカに着上陸するトーチ作戦を実施しています。このトーチ作戦はヨーロッパ戦域におけるドイツ、イタリアに対する反攻の第一歩であり、フランス政府が統治していたモロッコとアルジェリアが攻撃の目標となりました。そのため、アメリカはフランスの意向を尊重する姿勢をとり、現地の行政活動に関しては地元のフランスの地方官吏に一任し、この問題に関する政策立案を国務省へ委ねることを決定しました。さらに、救援の物資に関する政策は1941年に設立されたレンドリース管理局に任せました。この政府の決定によって、北アフリカで作戦を遂行していた指揮官は、自身の権限だけで民事活動を遂行することができなくなり、複雑な連絡調整を行うことを強いられました。
当時、連合国軍最高司令官としてトーチ作戦の指揮をとったドワイト・アイゼンハワー陸軍中将は、民事が戦況に及ぼす影響の大きさを指摘した上で、北アフリカにおける安全が確保されるまで、民事活動を軍隊の指揮統制の下で遂行するべきであると主張し、政府の方針に反対しました。これは参謀本部も巻き込む論争になりましたが、結局、現地の民事を軍事的必要性に従って遂行するという原則は認められませんでした。
アイゼンハワー中将は、占領地で住民の民需を満たすために毎月3万トンの物資が必要であると見積り、レンドリース管理局に輸送船団を急がせました。しかし、これは膨大な労力を要する事業であったために、民事活動が進展するまで作戦行動を中断することを強いられました。この経験から、陸軍は作戦行動と民事活動を両立させることが極めて困難であることを認識するようになりました。
1943年1月に入ると、陸軍省は作戦計画を立案する段階で、占領地の民需を見積り、特に住宅、食料、保険衛生に関する準備を進めることを標準の手続きとしました。ガリオンも、この事態を受けて陸軍省に民事関連の業務を専門的に管轄する組織を立ち上げることを働きかけており、その意見は陸軍中央で広く支持されるようになりました。
それまで陸軍の内部でばらばらに遂行されていた民事関連の業務が集約され、1943年3月に陸軍省で民事を所掌する民事部が設立されました。その部長にはジョン・ヒルドリング陸軍中将が就任しました。ヒルドリングは、民事要員が事前の見積より多く必要であると判断し、アメリカ陸軍全体で計算すると、民事訓練を受けた6,000名の将校は必要だと見積もりました。
ヒルドリング中将は、アメリカ陸軍で民事活動を合理化することに寄与していますが、アメリカ政府は依然として占領地における軍政府の行政に政治的制約を設けようとしました。ルーズベルト大統領は、たとえ戦時中であったとしても、一定の期間が経過したならば、軍政府から文民政府へ移行させることが適当だと主張しました。スティムソン陸軍長官は、戦争が終結するまでは、占領地行政に関する指揮系統を一元的に保持する利点を主張して抵抗しましたが、ルーズベルト大統領は自分の信念から政府と軍隊が二元的体制で民事を遂行することにこだわっていました。
第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍では、参戦する前から民事活動の重大性を認識した専門化がいましたが、その準備が本格化したのは参戦した後であったために、時間の猶予がない中で複雑な調整を強いられ、またマスコミから「帝国主義の萌芽」などと非難されたことから、印象が悪化したこともあって、政府は民事を軍事的必要性の原則に従わせることに慎重になり、軍の指揮官が権限を主張した際に、政府が占領地行政に関する権限を要求する事態となりました。
結局、第二次世界大戦の全期間を通じて陸軍と政府の双方が調整しながら民事を遂行する態勢がとられましたが、これは教訓を含む事例であろうと思います。軍事作戦の円滑な遂行において、民事要員は不可欠であり、民事を軍事的必要性に従わせる原則に関して戦前から政府関係者と協議しておくことが必要であったと思います。
参考文献
Ziemke, E. F. (1975). The US Army in the occupation of Germany, 1944-1946. Washington, D.C.: Center of Military History, United States Army.