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核の使用を自制させる規範の形成を分析したNuclear Taboo(2007)の紹介

国際政治で核兵器の運用方針を説明する理論を構築するため、研究者は合理的選択アプローチを採用してきました。このアプローチの特徴は、国家の指導者が他国の指導者が選択可能な戦略を考慮に入れた上で、自国の利得を最大化できるような戦略を選択するはずだと想定したことです。

しかし、トーマス・シェリングは、意思疎通が制限された複数の行為主体が選択を迫られる場合に、それぞれの行為主体は理論的に合理的とされる戦略を選択するわけではないことを実験的手法で示しました。彼らが戦略を選択するときに参照しているのは、利得と損失の計算ではなく、それぞれが所属する集団の社会的慣習、文化的規範でした。その後、戦略の研究では、これをフォーカル・ポイント(focal point)と呼ぶようになっています。

これは国際社会における国家の行動を理解する上で規範や慣習が重要な意味を持つ可能性を示す研究の一例です。その後も研究者は合理的選択アプローチの前提を緩めた上で理論の再構築を続けてきました。核戦略の分野で合理的選択アプローチの前提を緩めた場合、1945年にアメリカが日本の広島と長崎に対して核兵器を使用してから、一度も実戦で核兵器を使用してこなかった理由に関しても新しい説明が求められます。

Nina Tannenwald氏の著作『核のタブー(The Nuclear Taboo)』(2007)は、国際社会では核兵器の使用を禁忌とする規範が出現したことが、アメリカの核兵器使用を制約してきたと主張しています。

Tannenwald, N. (2007). The Nuclear Taboo: The United States and the Non-use of Nuclear Weapons Since 1945. Cambridge University Press.

国際政治学の研究史を振り返れば、核のタブーによる説明は必ずしも目新しいものではありません。著者自身そのことを認めており、前述したシェリングだけでなく、歴史学者のジョン・ルイス・ガディスが冷戦初期においてアメリカによる核兵器の使用が起きなかった理由として「道徳的な懸念」が重要であったという見方を示したことを紹介しています(Tannenwald 2007: 8)。

著者の業績がユニークなのは、核のタブーを核兵器の先制使用を事実上禁止する規範的信念と定義した上で(Ibid.: 10)、それが歴史的に形成されてきた経過を過程追跡の方法で明らかにし、核兵器の使用に対して社会的に強い反発があったことが重要であったことを明らかにしていることです。

これまで核兵器の使用を国家に思いとどまらせる要因として、抑止(deterrence)が考慮されてきましたが、著者はその影響だけでは説明が困難な事例があると指摘しています。つまり、敵から核兵器で報復される可能性がないにもかかわらず、核兵器の使用を自制した事例があるのです。著者は抑止論を完全に退けるわけではなく、抑止と規範の二つの要因を総合することによって、核兵器の不使用に関する説明を補完できるという立場をとっています(Ibid.: pp. 71-2)。

この立場を裏付けるために、第二次世界大戦末期の日本、1950年から1953年までの朝鮮戦争、1961年から1973年までのベトナム戦争、そして1991年の湾岸戦争の4つの事例を取り上げ、それらの事例で核兵器の使用をめぐりアメリカ政府でどのような意思決定過程が進んでいたのかを分析しました。ここでは一つ目の事例で核のタブーが初期の段階でどのように形成されていたのかを中心に見ていきたいと思います。

まず、1945年の日本に対するアメリカの原爆投下で注目すべきは、それが必ずしも当時の指導者によって主体的に下された決定ではなかったということです。1944年9月、アメリカのルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相との協議で日本に対する原子爆弾の使用を検討する方針で秘密裡に合意しました。

しかし、1945年4月12日にルーズベルト大統領は死去し、同日にハリー・トルーマンが大統領に就任することになりました。新政権を発足させてから間もない4月25日に、トルーマンはレズリー・グローヴス陸軍少将から初めて原子爆弾に関する具体的な説明を受けました。ただし、グローヴスの説明には日本に対して原子爆弾を使用すべきかどうか、どのように使用すべきかといった実質的な論点に触れていなかったと著者は指摘しています。

グローヴスはトルーマンに原子爆弾の試験が7月に予定されていること、8月には製造が完成すること、すでに爆撃機部隊の訓練が進んでおり、もうすぐ太平洋に配備されることを伝えましたが、それは既定の計画に沿って準備が進んでいることを示しているにすぎず、新政権がこの問題に関してどのような代替案をとることができるのか明示されませんでした(Ibid.: 78)。グローヴスは2日後の4月27日に攻撃目標の選定を進める委員会の会合を開いていますが、その会合では最初から原子爆弾の威力に相当する大きさの目標を選定することが前提になっていました(Ibid.)。

トルーマンは原子爆弾の試験が実施される前に核兵器の使用を命令しており、その命令を下達した日付は7月5日とされています(Ibid.)。しかし、トルーマンの命令は積極的な意思決定の結果ではなく、グローヴスは「不干渉の決定であり、基本的に既存の計画を攪乱しないための決定であった」と後で振り返っています(Ibid.: 79)。

このような経過で核兵器使用が決められたことは、今にして思うと不可解です。しかし、当時の人々にとって核兵器はまったく新しい兵器であり、通常兵器と何が異なるのか明確に認識できていなかったと著者は指摘しています。核兵器と通常兵器との間に明確な区別が設けられたのは、使用された後であって、「日本への原子爆弾の投下は戦時中に行われていた戦略爆撃の継続であり、断絶ではなかった」とされています(Ibid.: 79)。グローヴスは可能な限り多くの原子爆弾を日本に投下したいと考え、広島、長崎だけでなく、3発目の原子爆弾を投下する計画も準備されてました(Ibid.: 80)。核のタブーの発生との関連で注目すべき事象は、アメリカ軍が広島と長崎に原子爆弾を投下した後でトルーマンが3発目の原子爆弾を投下しないように軍隊に命じたことです。この命令が下達されたのは8月11日であり、焼夷弾を使用した爆撃は引き続き実施してもよいとされていました(Ibid.: 88)。

「長崎に対する原子爆弾での攻撃が行われた翌日、8月11日、トルーマンは日本の都市への焼夷弾による爆撃の継続を許したが、原子爆弾の投下は中止することを命じた。広島に対する原子爆弾の投下による影響に関する報告書を読み、写真を見たトルーマンは、3発目の原子爆弾の投下を望まなかったのである。彼は閣僚に「さらに10万人の人々を絶滅させることは、あまりにも恐ろしいことだ」と言った。また、商務長官だったヘンリー・ウォレスが日誌に書き残したように、『彼(トルーマン)は『すべての子供たち』を殺すという考え方を好まなかった』とされている」

(Ibid.: 88)

当時のアメリカの世論としては、原子爆弾の投下が広く支持を集めており、支持率はおよそ86%にのぼりました。トルーマン政権としても表向き、原子爆弾の投下を正当化する声明を発表しています(Ibid.: 89)。原子爆弾の投下が日本を早期に降伏させることに寄与したという見方が流布されたのは、この時期のことです。

しかし、戦後に実施された戦略爆撃の効果に関する調査結果がまとめられると、世間の論調が少しずつ変化していきました。1945年12月、第二次世界大戦で実施された陸海軍の戦略爆撃の効果を検証した陸海軍合同機関、アメリカ戦略爆撃調査団が報告書を発表し、アメリカ軍による原子爆弾の投下は軍事的に必要ではなかったという見方を裏付けました。翌1946年、従軍記者として原爆が投下された直後の広島で取材を行ったジョン・ハーシーはルポルタージュ『ヒロシマ』を発表し、アメリカで多くの読者を得ました。この著作は原子爆弾が非戦闘員に及ぼした被害の状況をアメリカの国民が深く認識するきっかけとなり、核兵器の使用が道徳的に間違っていたという見方が出てくるようになっていきました(Ibid.: 92)。

トルーマンとしても、核兵器を通常兵器と厳格に区分し、特別な政治的考慮の下に管理する体制を構築する必要があると考えていました。確かに、トルーマン政権は表面的にはアメリカが核兵器大国として軍備の拡張を推進する方針を決定し、その後の国防政策で核戦力の整備を重視したといえます(Ibid.: 98)。ただ、トルーマン政権は原子力エネルギーを軍部が管轄することを許そうとはしませんでした。むしろ、それを文民の管理に置くことに強くこだわっていました。1946年に大統領直属の独立行政機関として、民間人の有識者から構成されるアメリカ原子力委員会を組織し、そこで原子力エネルギーの問題を担当させる体制をとったのも、トルーマンの強い意向があったためです(Ibid.: 99)。1948年5月、トルーマンは軍部が作成した核兵器使用を含む戦争計画を承認することを拒み、通常兵器のみを使用した戦争計画を作成するように命じました(Ibid.: 99)。これは当時のアメリカ政府で、核のタブーが具体的な規範として形成されつつあったことを示す現象といえるでしょう。

トルーマン政権は核兵器の国際的な管理を強化することにも取り組んでいました。その成果の一つが大量破壊兵器(weapons of mass destruction)という概念であり、核兵器、化学兵器、生物兵器がこの概念で包括的に取り扱われるようになったのは、これを制限の対象として位置付ける外交的な取り組みがあったためです。大量破壊兵器という言葉が最初に使われたのは、1945年11月15日に発表されたアメリカ、イギリス、カナダの共同宣言であり、それは「原子兵器およびその他の大量破壊に適合する主要な兵器を国家の軍備から廃絶する」ことを目的とした国際的委員会を樹立することを勧告するものでした(Ibid.: 102)。1945年12月にソ連のモスクワで開催されたアメリカ、イギリス、ソ連の外相会談でも委員会を設置することが勧告されており、1946年1月1日には国際連合の総会で全会一致で、国際連合原子力委員会が設置されることが決議されました。そして、その規制の対象を明確化する必要があったため、別に設置された通常兵器委員会で協議されることになりました。

1948年8月、通常兵器委員会では大量破壊兵器の定義として「原子爆弾兵器、放射性物質兵器、致死的生物・化学兵器、並びに上記の原子爆弾やその他の兵器と同等の破壊効果を備えた、将来開発される兵器」を採択しました。これにより規制すべき兵器の対象を法的に絞り込むことが可能となったはずでしたが、ソ連は核兵器の国際的管理に必要なのは禁止することであると主張し、規制を主張していたアメリカと対立しました。このため、交渉は行き詰まり、実質的な成果を出すことが困難になりました。1952年に総会決議に基づいて通常兵器委員会と原子力委員会は国際連合軍縮委員会に再編されています。超大国の利害が絡む問題であったために、国際的な管理の在り方をめぐる立場の隔たりを埋めることは外交的に難しい課題でした。

ソ連が密かに核兵器の開発を進めていることは、1946年の時点でアメリカ側でも把握されており、次第に民間のレベルでもソ連が核兵器の開発をこれ以上進展させる前に、ソ連に先制してアメリカから核兵器を使用すること、つまり予防戦争を遂行すべきだと主張する強硬派が出てきました(Ibid.: 105)。トルーマンは1948年に核兵器の国際的規制の取り組みが頓挫してから、やむなく核兵器運用体制の制度化を進める方向で自らの政策を見直しましたが、予防戦争論には反対の立場をとりました(Ibid.: 106)。1950年4月、アメリカの国家安全保障会議ではソ連に対する予防戦争を実施すべきかどうかが議論されていますが、結論として、ソ連に対して予防戦争を始め、原子爆弾を投下したとしても、それが軍事的に有効であるとは限らないこと、また多数のアメリカ国民がそれに反感を覚えていること、またアメリカの同盟国との外交関係を混乱させる恐れがあること、以上の3点を理由に予防戦争の案は退けられることが決まりました(Ibid.: 107)。

この政府方針はアメリカ国民の考えともおおむね合致するものでした。1954年に実施された世論調査では「原子爆弾や水素爆弾で優位に立つ今こそ、ソ連と戦うべきであると述べる人々」に対して76%の人々が反対していました(Ibid.: 108)。ただし、この方針でトルーマン政権が退けたのは、予防戦争であり、核兵器の先制使用であったことは強調しなければなりません。これは、いかなる状況であっても核兵器を一切使用しないという方針ではありませんでした。著者はトルーマン政権が核兵器の使用に対して個人的な責任を感じており、核兵器の管理体制の確立を目指しつつも、冷戦構造の中では運用体制の構築に重点を移さざるを得なかったと解釈しています(Ibid.: 112)。それでも、トルーマンがその後の核兵器の使用に対して重要な歯止めとなる規範の創出に貢献したことは評価できるでしょう。

著者は過程追跡の方法論に基づいて、核のタブーという規範が形成され、発展を遂げる過程を詳細に解明していきます。この記事では第二次世界大戦の事例だけを取り上げましたが、その後もアメリカの歴代政権は核兵器の問題と対峙し、核のタブーという規範を発展させていきました。核兵器は廃絶されず、現在でも存在していますが、例えば包括的核実験禁止条約(1996)のような外交的成果もありました。著者は核のタブーが核戦争を回避する上で重要な基盤であるとして、それを存続させるように軍隊の運用構想を選択することの意義を強調しています。特に核兵器の先制使用に依存した防衛体制の構築は避けるべきであると著者は提言しています。抑止の観点だけでなく、規範の観点を持っておくことで、核戦略の問題をより深く理解することができると思います。

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