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古典的な抑止論と現代の抑止論は何が違うのか?

抑止の目的は戦争を防止することにあります。もし潜在的な攻撃者が部隊を動員し、それを国境に展開するなど、武力攻撃の前兆を見せていると想定してみましょう。この場合、標的とされた防御者は武力攻撃に対して自国が徹底抗戦の構えを示し、敵に多大な損失を与えることができることを知らせることにより、攻撃者が武力攻撃を実行に移すことを思いとどまらせることが期待できます。

国家が戦争で負担する費用が減少するにつれて、その国家が戦争で得られると期待される利益が増大します。理論の上では、一方が強大な軍事力を保有しており、他方が弱小な軍事力しか保有していない場合、戦争が勃発した場合に攻撃者が受ける抵抗はわずかで、費用が小さく抑えられると推定されるので、戦争が起こりやすくなると予測されます。

ここまでは恐らく一般的にも知られている議論だと思います。日本の政策論争でも、このタイプの抑止論に基づいて、どれほどの防衛力が必要なのか、どのような装備品が必要なのかが説明されることが多いと思います。確かに、この理論で抑止の成否を説明できる場合もあるのですが、やはり冷戦時代に構築された抑止論であるため、いろいろな限界、課題があることも分かっており、学界では淘汰されつつある議論であることも知っておくべきでしょう。現代の研究者が支持している抑止論は古典的な抑止論のように軍事的能力だけに注目しているわけではありません。

各国が予想する戦争の結果はそれぞれに異なる

まず、軍事情勢では軍事力の優劣をめぐり、評価が大きく分かれることが少なくありません。軍事力を構成する要素は多種多様であり、人的資源、物的資源の規模を定量的に測定するだけで計り知れる性質のものではないのです。むしろ、軍事力の要素として重要なのは客観的に測定することができないものであることが分かっており、どのように部隊を組織化しているのか、それをどのように運用するのかによって、結果が大きく変わると考えられています。

古典的な抑止論は、相対的な軍事力の優劣が自明であり、戦争が発生した場合に起こり得る事態について共通の予測があると想定しています。しかし、そのような予測を立てる際に、両国の政策決定者が利用できる情報は極めて不完全なのが現実であり、一方が勝利を確信しているからといって、他方が敗北を覚悟しているとは限りません。軍事力の格差が明白であっても、双方が同時に勝利を確信していることも十分に起こり得ることです。

実際、過去の戦争が発生した際に、軍事的バランスがどのような状態であったのかを調査すると、両国の軍事力に明確な格差があったときよりも、軍事力の優劣が不明確なほど拮抗しているときの方が、戦争が起こりやすくなることが分かっています。そのため、現代の抑止論では、戦争が勃発した場合に起こり得る結果について両国が異なる予想を立てるときに抑止が失敗しやすくなると考えています。しかし、戦争が始まると、戦闘の結果によって双方の軍事力の優劣について正確な情報を得ることができるようになります。このような双方の強さに関する情報の共有が和平を推進する要因になることも指摘しておきます。

将来への不安、恐怖が予防戦争を引き起こす

抑止論に話を戻すと、自国が将来的に軍事的な劣勢に立たされるのではないかという不安、恐怖が抑止を困難にするということも現在ではよく知られるようになりました。これは自国も含めて国際社会のあちこちで軍備の増強が進められている場合に強まるリスクです。

例えば、ある国が隣国の軍備が急拡大していることに気が付くと、その軍備がいずれ自国に対して使用されるのではないかと恐怖を覚えるかもしれません。このような脅威を認識した場合、その国は隣国が軍拡をこれ以上進める前に攻撃しておいた方がよいのではないかと考えるかもしれません。このように将来的に脅威となることを予想した上で戦争を仕掛けることを、戦略の用語で予防戦争(preventive war)といいます。

現代の抑止論は心理学の成果を積極的に取り入れていますが、先行きに不安を感じている人は、周囲の人々の敵意を過剰に感じやすくなるという知見があります。国家の指導者も普通の人間であるため、将来的に自国が軍事的に窮地に立たされると恐怖を感じると、それが社会的認知に影響を及ぼし、たとえ隣国が実際には防衛的な意図しか持っていないとしても、侵略的な意図を持っていると誤認しやすくなります。このような誤認は予防戦争の原因となり得ます。

また政治心理学では、国内において政権を維持するために、国民から幅広い支持を集めようとして、外国に対して不必要に強硬な態度をとることがあることも分かっています。このような動機づけを持っている指導者は、敵の能力を過小評価し、味方の能力を過大評価しやすくなります。このような認知の歪みが悪化し、正確に情報を処理できなくなれば、たとえ外交によって立場の隔たりを埋めようとしても、戦争の先行きに対する双方の認識を合致させることが不可能となり、妥協点に到達できなくなります。これも抑止を失敗させる重大な問題です。

まとめ

現代の抑止論では、軍事情勢の現状や将来に関する情報が常に不完全であることが戦争のリスクを高めることを予測されています。古典的な抑止論では、国家の政策決定者が正確な情報を使い、冷静に軍事力の水準や優劣を判断し、最適な対応を選択すると想定していますが、それは現実的な想定ではありません。政策決定者は常に不完全な情報を用いて状況を認識しており、周辺諸国の意図や能力を誤解、誤認する可能性が常にあるのです。

それゆえ、現代の抑止論では軍備増強だけでなく、外交交渉の重要性を強調しています。双方が継続的に意思疎通し、意図と能力に関する情報を共有するほど、戦争のリスクを低下させることが期待できるためです。ただし、政治家が好戦的な信念を身に着け、あるいは国内の事情で戦争に積極的な姿勢をとっているならば、外交で努力を重ねても、抑止の効果が期待できません。そのような場合は、こちらも武装していることを伝え、もし攻撃を実行すれば、あらゆる軍事的手段を駆使し、相手に甚大な損害を与えるというメッセージを伝える必要があります。

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