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大国の情報活動が成功するとは限らない:Why Intelligence Fails(2010)

大国は世界で何が起きているのか、何が起きそうなのかを知るため、多くの予算を情報活動に割り当てています。しかし、その費用に見合った情報が得られるとは限りません。アメリカの政治学者ロバート・ジャーヴィスは、国際政治学で指導者の状況認識が対外政策に与える影響を考察してきた研究者であり、アメリカの情報活動の失敗事例を取り上げて、その原因を考察しています。

Jervis, Robert. (2010). Why Intelligence Fails: Lessons from the Iranian Revolution and the Iraq War, Cornell University Press.

国家の指導者が意思決定を最適化する上で適時適切な情報を得ることが重要であるのは常識の範疇だといえます。しかし、多くの研究者が情報活動は日常的に失敗しており、問題が起きていることを認識しています。この点について著者は「情報がしばしば間違いを犯すという事実は、研究者を驚かせるものでも、また政策立案者を驚かせるものでもない」と述べています(p. 2)。ただし、情報の失敗を詳しく調べてみると、情報収集の過程である資料を手に入れることができなかった場合と、獲得した資料を適切に分析することができず、そこから重要な情報を引き出すことができなかった場合があることが分かります。著者は後者の場合を問題視しており、適切な分析を実施することによって避けられた可能性があった情報の失敗を本書のテーマに位置づけています(p. 3)。

著者がこのような失敗が見出される事例としているのが1978年のイラン革命と、2003年のイラク戦争です。アメリカの歴史において情報活動は何度も失敗を繰り返してきたので、この二つの事例に研究対象を限定する必要性は必ずしもありません。しかし、著者はこれらの失敗事例は一般的に考えられているよりも、情報の分析は不合理なものではなかったと主張しています。つまり、一見すると分析官は当時獲得された資料に基づいて合理的な推論を組み立てたにもかかわらず、大きな失敗を犯したという意味で重要だと主張しています(p. 4)。また、イラン革命の事例については、著者自身が中央情報局の失敗について調査に参加した経験を持っており、その経験に基づく具体的な記述が盛り込まれています。ここでもその内容を中心に紹介します。

1978年11月、イランでは反体制運動が急速に高まり、国王のムハンマド・レザー・シャーは武力による弾圧に乗り出しました。この事態の急変はアメリカの情報関係者にとって大きな驚きでした。中央情報局で国家対外評価局ボブ・ボウイ(Bob Bowei)局長はこの事態を予見できなかった原因を調査することを友人だった著者に依頼しました(p. 15)。著者は、大使館、領事館、中央情報局で作成された報告書を調べ上げ、関係者への面接も実施し、アメリカがイランに関連する情報をどのように得ていたのかを確認しました(pp. 15-7)。情報を保全する必要があったため、著者はすべての情報にアクセスすることを許可されたわけではないものの、イランの国内政治、特に反体制派の動向に関する報告書を調査してみると、反体制派の監視を行っていたイランの秘密警察との情報の共有がほとんどなかったことが分かりました(p. 17)。

著者は、アメリカの情報組織の状況から現地で独自に情報資料を集める上で重要なペルシャ語要員が不足していたと推測しており、その社会の動向を探ることが困難であったと見ています。これはアメリカ政府として、イランの国内政治に関する情報の要求が大きなものではなかったことも反映しており、大きな関心を持たれていたのはイランの隣国のソビエトの軍事的動向を通信傍受で探ることだったと述べています(p. 18)。

また、1978年にイランで政治的な危機が起こるまで、イランの状況に関する分析は情報組織の内部で軽視されており、分析官は自分たちの報告が関心を引き付けることがないため、士気の低下に繋がっていました(p. 22)。著者は政策立案者が情報を注意深く読むことがないとしても、情報関係者の間では互いの仕事について批評しあう知的なコミュニティーが築かれているものと素朴に期待していましたが、実際にはほとんど行われていませんでした(p. 22)。中央情報局の職員が外部の研究者や専門家と接触することもほとんどなく、彼らの議論は狭い範囲に限定される傾向にありました。ただし、イラン革命の状況に関しては外部にいた研究者や専門家も把握できていなかったので、そのこと自体が情報の失敗の原因とはいえないとも述べられています(p. 23)。

より直接的な失敗の原因として、著者は4つの要素に注目しています。第一に、情報組織がイランの反体制派の動きを危険視しなかった主な根拠として、イラン国王がそれを取り締まろうとしていなかったことが挙げられていたことです。つまり、もしそれが本当に危険なのであれば、イラン国王はそれを取り締まるはずであり、それをしないのであれば、事態は深刻ではないはずだと推論されていました(p. 24)。この推論はまったく非合理的であるとまではいえません。しかし、この推論が妥当であるためには、イラン政府が反体制派の動きを掴み、その危険の程度に応じて最適な反応を必ずとれなければなりません。つまり、イラン政府が危機的な状況に陥ったときに、はじめてこの判断が間違っていたことが明らかになるという状態でした(p. 24)。

第二に、多くの分析官は過去の実績からムハンマド・レザー・シャーの政治的手腕を高く評価しており、動揺することがない指導者であると見なしていたこと指摘されています(p. 25)。歴史をさかのぼることで将来における指導者の能力を推測することには限界がありますが、当時としては説得力のある考え方でした。第三に、イランの政治状況における宗教の役割を理解できていなかったとも述べられています(p. 25)。当時の分析官はイランの国内で国王が反体制派と対立したときに、宗教指導者が反体制派を推進する重要な役割を果たすことができる可能性を認識できていませんでした。

第四に、イランにおけるナショナリズムとそれに呼応する反米主義の高まりが見過ごされたことが挙げられています。当時、イランの多くの国民がナショナリズムの意識を強める中で、国王をアメリカの傀儡と見なすようになっていましたが、このことは見落とされていました(p. 25)。分析官は、イラン革命の結果、最高指導者の地位に就くイスラム法学者ルーホッラー・ムーサヴィー・ホメイニーが1964年にアメリカ軍の部隊駐留を認める地位協定の締結に際して政府に対し暴力的な反対運動を組織したことを知っていました(p. 25)。しかし、当時から分析官たちはホメイニーの動向にさほど注意を払っておらず、また、これがどのような政治的な文脈で起きていたのかを十分に理解できていませんでした。

著者は、こうした成果をまとめて報告書を提出しましたが、中央情報局が何の反応も示しませんでした。著者は半年後に別の所用で中央情報局の本部に立ち寄った際に報告書がどうなったのか確認しました。著者はこの報告書は中央情報局に甘すぎるのではないかと心配していましたが、後で責任者はその報告が極めて厳しい批判であると受け止めていると知って驚かされたとも述べています(p. 27)。著者としては、広く受け入れられた判断に対して、少なくとも一つはまったく異なった説明を試みることにより、仮説を競合させることを提案しています。これは情報分析に幅を持たせることになるので、情報の失敗のリスク軽減に寄与します。

著者は当時は知り得ない事柄ではあったものの、レザー・シャーが癌を患っており、数年前から治療が開始されていたものの、衰弱していたことについても指摘しています。健康状態は彼の政治行動に影響を及ぼした可能性があり、また、軍部の国王に対する忠誠が盤石なものではなかったこと、息子には一国を治める経験と技術が欠けていたことも、積極的な政治行動を選択することを思いとどまらせたのかもしれません(p. 31)。ちなみに、国王の健康状態に関するイランの情報保全は厳重で、国王の主治医だったフランス人の医師は、著者が知る限り自国政府にさえ患者の秘密を守り通しました(p. 32)。

この著作では、イラン革命だけでなく、2003年のイラク戦争に関する情報の失敗も取り上げていますが、そちらの事例についてはさらに検討されることになると思います。当時の政権が圧力をかけて情報評価を操作したという解釈が根強く残っているためです。著者の立場としては、利用できる情報は限られているものの、イラクが大量破壊兵器を保有しているという判断は必ずしも非合理なものではなく、1990年代のイラクの行動を踏まえれば、化学兵器とわずかな量の生物兵器を持っていると評価したこと自体は妥当であったとしています(p. 155)。著者の議論は説得的であると思いますが、イラク戦争は今後も引き続き検討されるべき事例であろうと思います。

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