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論文紹介 米国が戦略の立案に失敗した制度的原因とは何か?

数多くの研究者がアメリカの戦略を批判してきましたが、その中で最も厳しい批判は、そもそもアメリカに戦略がないというものです。2001年9月にアメリカでアルカイダが同時多発テロ事件を引き起こしたことを受けて、アメリカ軍の部隊は世界各地のテロとの戦いに駆り出されました。

しかし、アメリカ軍が達成すべき目標は非常に曖昧であり、武力攻撃の政治的効果も不明確でした。アフガニスタンやイラクで戦いが繰り広げられる中で、敵対する武装勢力の動向は刻々と変化していきましたが、画一的な方法で対応しようとしたために、情勢の変化に即応して兵力の態勢や運用を変更することができませんでした。

2006年にヒュー・ストラチャンが『サバイバル』に掲載した「戦略を作る:イラク戦争後の政軍関係(Making strategy: Civil–military relations after Iraq)」はアメリカに戦略が欠如していた理由を制度論の観点から説明しようとした研究です。この研究ではアメリカの戦略だけでなく、同時期のイギリスの戦略にも同様の問題があったことが指摘されています。

Hew Strachan (2006) Making strategy: Civil–military relations after Iraq, Survival, 48:3, 59-82, DOI: 10.1080/00396330600905510

著者は、アメリカの戦略の欠如は政治的要因による可能性が高いと考えています。つまり、政治家が政治的観点を優先するあまり、戦略の立案を意図的に拒絶したために、長期的に戦略の形成ができない事態が生じたのです。

ジョージ・ブッシュ政権は2001年にアルカイダが潜伏していると見込まれたアフガニスタンへの武力攻撃を急いでいました。そのため、アフガニスタンに対する武力攻撃には慎重な姿勢を示していた国防総省、特に統合参謀本部を意思決定の場から排除しています。

統合参謀本部は1947年に制定された国家安全保障法に基づき、戦略の立案や指揮で大統領を補佐する任務を与えられた機関です。指揮統制の権限を握っているわけではなく、あくまでも専門的見地から助言を行うことができるにすぎません。そのため、大統領は統合参謀本部を通さず、副大統領、国務長官、国防長官などで構成される国家安全保障会議を通じて、アメリカ軍の作戦部隊に対して直接的に命令を発する権限を握りました。

2001年のアフガニスタン侵攻で起きたことは、2003年のイラク戦争でも繰り返されました。ブッシュ政権はこの時も統合参謀本部を通さずに、中東を作戦地域とするアメリカ中央軍の司令官に対して命令を下しました。1986年に制定されたゴールドウォーター=ニコルズ法により、大統領は欧州軍、中央軍などの作戦部隊の司令部と直接的にやり取りができたので、ブッシュ政権のように文民統制のやり方が徹底されると、政策と作戦を調整するはずの統合参謀本部は疎外されました。

政府は自らの意に沿わない場合、統合参謀本部に容赦のない圧力をかけることもありました。2003年に統合参謀本部のメンバーだったエリック・シンセキ陸軍参謀総長は、イラク戦争が終わった後の処理で必要な兵力は数十万名になる可能性があるという悲観論を上院軍事委員会の公聴会で述べました。戦後処理に必要な兵力はわずかだと楽観論を主張していたラムズフェルド国防長官はこの意見陳述に反発しました。最終的にシンセキは任を解かれただけでなく、退役することを余儀なくされたのです。

著者はこのような権力関係では有効な戦略を形成することはできないと述べています。なぜなら、戦略は政策によって一方的に規定されるものではなく、また政策と戦略は厳密に区別できるものでもないためです。著者はより対等な対話を呼びかけています。統合参謀本部が政府の意思決定でより積極的な役割を果たし、政策と作戦を調整しなければなりません。

カール・フォン・クラウゼヴィッツの理論によれば、戦争は他の手段をもってする政治の継続です。何らかの政治的目的を達成するために戦争を始めたとしても、戦争の推移が当初の予想と大きく異なったものになり、追加の兵力や資源を必要とするならば、戦争の目的が妥当なのか見直すことも考慮しなければなりません。反対に、軍事作戦の進め方について政治家が関心を示すことや、政治的観点から作戦の干渉することも戦略形成の一部と見なさなければならないでしょう。

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