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イラン・イラク戦争で学ぶ現代の海上護衛戦の課題『タンカー戦争』(1996)の紹介

イラン・イラク戦争(1980~1988)は海洋戦略の分野で多くの教訓を残した戦争でした。当時、この戦争で注目を集めたのは第一次世界大戦を彷彿とさせる陸上戦と敵の戦意を挫くためにイラクが実施した都市部に対するミサイル攻撃でしたが、イラクとイランの戦いは決して陸上だけに限定されていたわけではありません。

ナヴィアスとフートンの共著『タンカー戦争:イラン・イラク危機(1980~1988)における商船に対する襲撃(Tanker Wars: The Assault on Merchant Shipping during the Iran-Iraq Crisis, 1980-1988)』(1996)はイラン・イラク戦争が海上戦としての側面を持っていたことに注目し、その歴史を記述した研究成果として評価されているものです。

Navias, M. S., and E. R. Hooton. (1996). Tanker Wars: The Assault on Merchant Shipping during the Iran-Iraq Crisis, 1980-1988. London: Tauris.

イランとイラクはいずれもペルシア湾を通じて海上貿易を行っていた国です。ペルシア湾の海上交通路は双方にとって石油を輸出するために欠かすことができない貿易路であるため、そのためイラン・イラク戦争が勃発した1980年の時点でも、あえて両国ともペルシア湾の海上優勢を争奪することは自制していました。

ところが、イランが最初の打撃から立ち直った1982年以降にイラクが戦略の変更を行ったために、戦いの様相は一変しました。イラクはイランの石油施設を標的とした航空攻撃を行うようになり、イランの経済に打撃を加えようとしました。これに対してイランも報復の目的でイラクに向かう船舶を攻撃するようになったため、イラン・イラク戦争に海上戦の要素が追加されることになりました。この戦いでは双方のタンカーから被害が出たため、タンカー戦争と呼ばれています。

タンカー戦争によってペルシア湾における商船の航行が困難になったことは、世界の石油価格にも影響を及ぼす重大な問題でした。1987年にアメリカは事態を深刻に受け止め、ペルシア湾に軍事介入することを決めました。アメリカはイラクを支援する姿勢を明らかにして軍艦を派遣し、ペルシア湾の海上優勢を確立し、タンカーを護衛させることにしました。イラン海軍の戦力ではアメリカ海軍の活動を拒否することが難しく、正面から戦いを挑むことはできませんでした。

しかし、アメリカ海軍の能力をもってしても、ペルシア湾での航行の安全がすぐに確保できたわけではありませんでした。1987年、アメリカ海軍のフリゲート「スターク」はペルシア湾で哨戒を行っていたところ、イラク空軍の戦闘機に攻撃目標と誤認され、35km先から発射した空対艦ミサイルで攻撃されており、これにより37名の乗組員が命を落としました。1988年、フリゲート「サミュエル・B・ロバーツ」は、タンカーを護衛していたときに、イラン海軍が敷設していた機雷に触れ、船体が損傷して任務を続行することができなくなりました。

アメリカをはじめとする西側諸国は最終的に約60隻、ソ連はイランを支援する立場で29隻の軍艦をペルシア湾に展開し、海上護衛を行わせています。しかし、推定411隻のタンカーが何らかの損害を被り、そのうちの4分の1が海の底に沈みました。この損失は、ペルシア湾を航行する船舶の総量に比べれば1%未満にすぎなかったと著者らは指摘していますが、それでも甚大な物的、人的な損害をもたらした海上護衛戦であったといえます。

アメリカ海軍の海上護衛の努力によって、ペルシア湾におけるイラン海軍は次第に海上優勢を失い、海上貿易も途絶していきました。石油の輸出から得られるはずの収入を大幅に減らし、外部から支援を受け取ることも難しくなり、陸上戦でもイラク軍に対して劣勢に立たされるようになってきました。タンカー戦争で敗れたことは、イランが終戦を決めた要因の一部ではありますが、著者らはその要因が小さなものではないことを明らかにしています。

戦略の研究として興味深いのは、保険会社がタンカー戦争の展開に影響を及ぼしたと指摘した点でしょう。船舶が積荷を海路で輸送する際には、積荷の損害を保障する積荷保険と船舶の損害を保障する船舶保険の二つに入ります。

どちらも海運事業にとって不可欠な保険ですが、保険会社はタンカー戦争が始まってからペルシア湾を航行する際に支払うべき保険料を大幅に引き上げました。保険料の引き上げは、当時のペルシア湾の海運の動向と各国の戦略に影響を及ぼしており、著者らはイラン政府が保険料の引き上げの影響を軽減するため、独自の割引を提供する政策を打ち出すことで、自国の海上貿易が途絶しないように努めていたことを紹介しています。

このような状況は今でも繰り返されています。2022年4月、イギリスのロイズ保険業者とロンドン保険業者組合の合同機関が、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、黒海、アゾフ海、ロシアとウクライナの周辺海域を通常の保険料を適用すべきでない危険な区域に指定しました。これにより保険会社はこれらの海域を航行する船舶に割増保険料を適用しています。

専門的な内容であるため、研究者向けの一冊ですが、イラン・イラク戦争の歴史だけでなく、現代の海上護衛戦の実情を理解する上で役に立つ文献です。長大な海上交通路に頼っている日本が、船舶に脅威を受ける危険がある状況を考えるとき、本書で記述された内容を参考とすることが必要ではないかと思います。

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