【青森・弘前レトロ建築めぐりの旅】なぜ弘前には洋館がきれいに残っているのか?
青森県弘前市はレトロ建築の街だった。
弘前市内のいたるところに趣のある洋館がたくさん残されていた。しかも、部分的に残っているだけだったり、残念な改装がされてしまっているのではなく、もとの形のままでまるごと残っている印象を受けた。なんでこんなにきれいに残っているのだろう。
この記事では、実際に訪れたいくつかの洋館を紹介しながら、弘前ではなぜそれらがまるごときれいに残されているのかを考えてみたい。
古い洋館が好きすぎる
ところでわたしは、旅先の街に明治・大正・昭和初期の洋風建築があるとうれしくなってしまう。古くて美しいものをこよなく愛しているわたしは、古い洋館も大好きなのだ。あんまり好きすぎるので、おそらく前世は古いお屋敷で姫君に衣装を着せる召使いをしていたんじゃないかと思っている。(今もときおり神戸の洋館で花嫁のお支度をしているのは前世の影響なのかも)
おっと、現世の弘前に戻らなくては。
青森空港から弘前へ
さて、現世のわたしは青森空港から弘前駅前のホテルに着き、荷物を預けてからすぐに市バスに乗り、まずまっさきに弘前れんが倉庫美術館へと向かった。あらかじめピンをつけておいたGoogleマップとホテルでもらったバスの路線図を見比べながら、だいたいのあたりをつけてバスを降りて少し歩いていたら、美術館のほど近くにいきなりどーんとこの教会が現れた。
その瞬間、もうこの街すでに好き。と思った。(早くない?)
このゴシック様式の建物は「弘前昇天教会聖堂」というらしい。
弘前昇天教会聖堂
イギリス国教会の伝統を引くプロテスタント系の教会としてこの地に教会堂が設けられたのは1896(明治29)年のこと。現在のレンガ造りの聖堂は、大正9年(献堂式は翌年)に宣教師ジェームズ・ガーデナーが設計し、竣工された。施工は本人もクリスチャンだった林緑、そして棟梁・設計は、クリスチャン棟梁・桜庭駒五郎だったそうだ。
三葉飾り(トレフォイル)の三角塔におさめられた鐘が特徴的な、ゴシック様式のとても美しい教会。
薔薇の実、いばらの絡まる塀、ティンバー調の筋交い、赤煉瓦の壁、十字架、そしてどんよりとした曇天、すべてが完璧で、いやがおうでも妄想がふくらむ。イギリスやゴシックロマンス好きにはたまらない佇まいだ。
プロテスタント系の教会だということ、そして設計から施工した大工、棟梁までもクリスチャンだったということも影響しているのか、日本によくある和風建築とミックスされた洋風建築(その独特な感じも大好きだけど)とは少し異なり「ちゃんとイギリスの教会感」のある素敵な建物だった。
弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会聖堂のすぐ近くに、同じく煉瓦造りの弘前れんが倉庫美術館がある。
この建物は、1907(明治40)年から1923(大正12)年の間に酒造工場として建てられた。この煉瓦造りの工場を建てたのが、もともとは大工であった福島藤助だ。福島は酒造りに適した弘前の土地柄と文明開化という時代に目をつけ、26歳の時に醸造家に転身する。福島が酒造工場を煉瓦造りとした理由として、「かりに事業が失敗しても、これらの建物が将来のために遺産として役立てばよい」という思いがあったという。
この煉瓦倉庫が美術館として生まれ変わったわけや感動のいきさつは、ぜひこちらの記事をどうぞ。
煉瓦亭(純喫茶)でちょっと休憩
煉瓦造りのレトロ建築をたっぷり堪能したあとのランチはその名も「煉瓦亭」で。弘前は「珈琲のまち」でもあるそうで、いい感じの純喫茶もたくさん。
タイルのテーブルがかわいい。
お店にいたとってもおしゃれな若いカップルが、弘前出身のタレントの王林ちゃんみたいな津軽弁で話をしていてすごくかわいかった。レトロ建築も好きだし、美術館もめちゃくちゃよかったし、珈琲のまちだし、ドリアおいしいし、なんかもう初日の数時間にしてすでに弘前が大好きになった。そして王林ちゃんも好きになった。(好きがはやい)
旧弘前市立図書館
わたしも洋館が好きでいろいろ見てきたけど、今まであまり見たことのない外観の「旧弘前市立図書館」(1906年)
独自のスタイルというか、かなり斬新な感じがする。この建物を建てた堀江佐吉は、明治の東北にあって独学で洋風建築を学んだそうだ。
堀江佐吉は1845年、藩のお抱え大工・堀江家の長男として生まれた。函館で洋風建築の基礎を学んだと言われ、後述する青森銀行記念館、旧弘前市立図書館など斬新かつ華麗な洋風建築を多く手がけた。
やっぱりこれは斬新で独特なスタイルだったようだ。
それではなかに入ってみよう。
このとき午後3時ごろだったが、すでに黄昏を予感させる光が差し込んでいた。この部屋で本を読むご婦人方やお嬢様を想像してうっとり。
図書室には、たくさんの本が。
素敵な階段を見ると、ドレス姿のお嬢様に立ってもらって、トレーンの裾を美しく整えたくなる。ミントグリーンの階段に白いドレスが映えそう。
外観の斬新さとはうってかわって室内はとても落ち着いた感じだった。
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館のすぐとなりには、旧東奥義塾外人教師館がある。
明治期に軍都として栄えた弘前は、明治5年に弘前藩の藩校の伝統を引き継いだ東奥義塾が設立されるなど、津軽地方の学問・教育の中心地となる。明治20年代から40年代にかけて弘前には教育施設が続々と建てられ、「学都弘前」の基礎が築かれた。
旧東奥義塾外人教師館は、その「学都弘前」の歴史を象徴する建物だともいえる。「学都弘前」として教育に力を入れたことで、多くの宣教師を外国人講師として招いた。それが弘前に洋風建築物がたくさん存在する要因のひとつであるという。
「文化」「教育」「芸術」それらは切っても切り離せない関係にあると思う。文化や芸術にひらかれたまなざしを持つ街は、どういう条件があって成り立ってきたのか。そういうことを考えながら、美術館や博物館、そして洋風建築や街並みを見ていくと、そこにはたくさんの発見があるように思う。
弘前レトロ建築の街(ミニチュア)
旧弘前市立図書館の裏手に、ミニチュアの「弘前レトロ建築の街」が再現されていた。それがちゃんと木造の建物で、かなりしっかりと作られていて、なかなか見応えがあった。
青森銀行記念館
とにかく美しく、立派で、そして「まるごと残っている」感がすごかった青森銀行記念館。
設計及び施工は、前述の弘前市立図書館を設計した堀江佐吉。構造は木造ルネッサンス様式の洋風建築である。土蔵と同じように壁を漆喰で塗籠め、窓にも漆喰壁の引き戸を入れた防火構造を取り入れている。
なかに入ってみてさらに驚いた。
銀行のカウンターの空間がそのまま残されているのだ。
元銀行の建物でも、レストランになったり、カフェになったりお店に改装されているのは神戸でもよく見かけるが、こんなふうに銀行のカウンターがそのまま残されているのは初めて見た。
洋館好きなわたしはかつて、神戸の元銀行だった建物にシェアアトリエを借りていたことがある。そんなこともあって、銀行の建物がこんな風に綺麗に残っているのがうれしくて、ワクワクした。
階段を登って、二階にも上がれるようになっていた。
天井には金唐革紙が使用されている。
金唐革紙(きんからかわし)は、日本の伝統工芸品で、和紙に金箔などの金属箔を貼り、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色を施した高級壁紙である。
さらにワクワクするのが、この三階の塔屋部分につながる階段だ。
秘密の屋根裏部屋への階段…。「屋根裏部屋」その言葉だけで妄想が暴走をはじめ、目眩を起こしてしまいそうになる。(大丈夫か)
リノリウムの床。そう、リノリウムの床なのだ。病弱な少女が保養をしている森のなかの病院の床は、リノニウムに決まっているのだ。
そしてバレエをしている少女がバーにつかまりながら、血の滲むまでポワントの練習をするのもリノリウムの床なのだ。
ああ寄宿舎。寄宿舎でもいい。腰に繻子織のリボンを結んで、揃いの白いドレスを着た寄宿舎の少女たちが外を眺めて佇んでいるのは、きっとこんな窓辺に違いない。
戸締り道具、ドアノブ、分銅、いちいちたまらない。
ありがとう。ありがとうこんなに完璧に残してくれて。ここまでくるともう感謝しかない。
あまりの素晴らしさに、受付のお姉さんに、
「素晴らしいですね! どうしてこんなに古い洋館がまるごとそのまま残っているんでしょうか?」
と聞いてみた。
お姉さんの意見では、弘前は大きな震災や災害に見舞われていないことがひとつの要因なのではないか、とのことだった。
なるほど。
ほかにも理由があるのだろうか。これはちょっと街のひとに聞いて調べてみよう、と思った。
まわりみち文庫
素敵な本屋さん、まわりみち文庫に寄り道して、お店のお兄さんにも近代建築について聞いてみた。
お兄さんの意見によると、弘前は城下町で栄えていたこと、さらに弘前は太宰治や石坂洋次郎などの多くの文学者を輩出していることもあり、文化を守ろうという街の意識が強いのではないか。ということだった。(注:太宰治は五所川原市の金木町出身だが、弘前で学生時代を過ごした)
ふむふむ。本屋さんらしい素敵な意見。でもたしかに。と思う。文化や芸術を守ろうという街の気質、みたいなものはあると思う。
こぎん作家さんにも聞いてみた
翌日お会いしたこぎん作家さんにも伺ってみた。すると、建物に限らず、城下町の地名も弘前にはそのまま残されている。つまり、古いものを大切に残そうという意識が強いのではないか、とのこと。
たしかに「こぎん」も、布を大切に使う気持ちから生まれた繕いの技術である。
また、別のこぎん作家さんは、「弘前が空襲や災害にあっていないこと」「古いものを大切にする心が昔からある」ということをおっしゃっていた。
太宰治の『津軽』によると
津軽出身の太宰治が書いた『津軽』にはこんなことが書いてあった。
ちなみに津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部のことである。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当するらしい。
「昭和文壇における誰かと似ている」っていうところが太宰らしい。つまり、北の端だったこと、服従という観念に欠けていたこと、中央から見て見ぬ振りをされていたことで、独自の文化が発展できたということもあるのだろうか。
弘前に洋館がきれいに残っている理由
これらをまとめると、弘前に洋館がたくさんあり、またそれらがきれいに残っている理由として、
城下町として栄えていたこと。
中央から離れていたことで、独自の文化が発展しやすかった。
軍都から学都へとシフトし、外国人宣教師を講師として招いたことでキリスト教が広まり、洋館が多くつくられることになった。
大きな空襲や災害に見舞われなかった。
文化や教育に力を入れた街であり、将来のために歴史的な遺産を残そうという意識が高かった。
古いものを大切にする意識が根付いていた。
これらが挙げられるのではないかと思う。空襲や災害などは幸運ということもあるのだと思うが、「軍都から学都へ」「文化や教育に力を入れる」「海外のものや新しいものも積極的に取り入れる」「将来世代のことを考える」これらの姿勢には、いまの時代にもつながり、学ぶべきことが多いように思う。つくづく軍事費よりも、教育や将来の世代のためにもっと力を入れて欲しいと思う。
今回、時間がなくて、館内を見ることのできなかった洋館がたくさんある。次に行くときは(行く気でいる)バスの窓から見て心惹かれた旧第八師団長官舎と日本基督教団弘前教会の中にも入ってみたい。
旅は少しくらい心残りがあったほうがいい。
参考文献・サイト
・弘前市発行・「趣のある建物」ガイドブック
・小林泰彦『にっぽん建築散歩』山と溪谷社、2019年
・太宰治『津軽』角川文庫、昭和32年
・弘前市サイト http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/
・弘前市観光サイト
▼関連note
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